森のざわめきが、いつもと違っていた。 朝の霧の向こうで、鳥が一斉に飛び立つ。木々の間を抜ける風に、焦げたような匂いが混じっていた。俺は小屋の屋根の隅で身を縮め、気配を探る。森の外れ、街道に近い方から、複数の足音が近づいていた。重い。急いでいる。そして、何かを追い立てるような間隔だ。 セリアが戸口を開けたとき、顔色はすでに青ざめていた。 「来た。今度は、魔物が群れで森に入ってきてる」 魔物。しかも群れ。 胸の奥が冷たくなる。前に追手を退けたといっても、あれは森の一角だった。だが今度は、森そのものを揺らす気配だ。俺は地面に降り、細かい震えを拾った。遠くの獣道が踏み荒らされ、枝が折れ、土が掘り返されている。ひとつではない。数が多い。 セリアは森へ続く小道を見やった。 「避難しないと。だけど、小屋の奥に子どもが二人残ってる」 その言葉で、俺は迷わなかった。彼女が森で拾った孤児の兄妹だ。焚き火の火花を怖がりながらも、よく笑う小さな子たち。まだ街までの道を歩くには足取りがおぼつかない。俺はすぐさま体を伸ばし、出入り口へ向かった。 セリアは息を呑んだ。 「案内してくれるの?」 返事の代わりに、俺は先へ転がる。ここは俺の得意な場所だ。狭い隙間、ぬかるみ、根の張り出した段差。子どもたちを連れて走るには、危険の位置を知っている者が必要だった。 小屋の裏手に回ると、兄妹はすでに怯えた顔で抱き合っていた。俺を見ると、弟の方が少しだけ目を丸くする。 「きらきらだ」 今さら珍しいと言われても、もう胸は痛まない。俺は彼らの足元へ寄り、道を示すように横へ揺れた。セリアが抱き上げた妹が、俺の表面にそっと手を伸ばす。その指先が触れた瞬間、微かな震えが走った。怖くない。そう思ってくれたのなら、それでいい。 外では、最初の悲鳴が上がっていた。 森へ踏み込んだ魔物の群れは、ただの獣じみた暴走ではなかった。人の手で追い込まれたように、ひどく荒れている。探索者たちが無謀に巣を崩したのだろう。怒りと恐れが絡まった流れは、こちらへ向かってきていた。セリアは唇を噛み、兄妹を抱いたまま小道へ駆ける。俺は先を行き、落ち葉の下に隠れた穴や、倒木のぬかるみを体で確かめ、ひとつずつ危険を外していった。 そのとき、背後で空気が裂けた。 振り返ると、森の奥から大きな影が三つ、樹々をなぎ倒しながら迫ってくる。狼に似た形だが、毛並みは土埃にまみれ、目だけが赤く光っていた。逃げ切るには速すぎる。俺はとっさに地面へ体を押しつけ、金属の表面を滑らせるようにして進路を変えた。次の瞬間、影のひとつが跳びかかる。 だが、そこにはもういない。 俺は木の根の裏を抜け、飛び込んだ先で小石を弾いた。その音に反応した二つ目の影が首を向ける。さらにセリアが、俺の意図を察して兄妹を抱えたまま別の脇道へ走る。人の足では危うい道も、俺が先に確かめていれば通れる。 追ってくる魔物は賢くはない。だが勢いがある。そこで俺は、水場へと続く細いくぼ地へ彼らを誘った。昨夜の雨で柔らかくなった土を踏ませれば、足元は崩れる。体を低く保ったまま転がり、寸前で脇へ逃れる。ひとつ、またひとつと、巨体が滑った。完全には止められない。それでも、進む速度を落とせる。 最後の一体が、とうとう俺を狙って跳んだ。 避けるだけならできる。だが、今回は避けなかった。俺は自ら飛び込み、そいつの牙先をわずかに受け止める。硬い体が震え、表面に浅い傷が走った。痛みはある。けれど、その一瞬で相手の勢いが止まる。セリアが振り返り、目を見開いた。 「だめ、戻って」 戻る。だが、ただ逃げるのではない。 俺は相手の体表を滑るようにして離れ、すぐ脇の倒木へ身を押しつけた。そこは先ほど確かめておいた、空洞のある場所だ。勢いを加えれば、崩れる。そう思った通り、木は鈍い音を立てて割れ、魔物の肩口に乗りかかった。完全に押し潰すほどではないが、動きを封じるには十分だった。 その隙に、森の反対側から別の声が響いた。 「こっちだ、巣穴は開いてるぞ」 探索者たちだった。魔物を追い詰めていた張本人が、今度は森を荒らす二番手として現れたのだ。しかも彼らの背後には、さっきまで逃げていたはずの獣たちが、苛立ったように集まり始めている。人と魔物、互いに追い立て合い、森の中心へ災いを押し込んでいく。 その光景を見たとき、俺は理解した。 このままでは、どちらも滅茶苦茶になる。森も、小屋も、セリアも、子どもたちも。 だから俺は、逃げ道ではなく、道そのものになった。 セリアたちを水路跡へ導き、崩れかけた橋の代わりに石の上を示し、魔物の視線を集めるために何度も音を立てる。探索者の足元へはぬかるみを誘い、獣の突進には石壁の陰へ滑り込んで角度をずらす。小さい体でも、できることはある。むしろ小さいからこそ、隙間に入り、危険を別の形へ変えられる。 やがて、森の奥で大きな咆哮が上がった。巣が崩れ、群れの中心が動いたのだろう。探索者たちは顔を失い、獣は散り、森を荒らしていた流れが一気にほどけていく。最後に残ったのは、泥だらけの道と、息を切らした俺たちだけだった。 夕方、騒ぎは収まった。 小屋の前で、セリアが子どもたちを抱きしめ、そのままへたり込む。兄妹は半泣きのまま眠ってしまっている。俺は彼らの横で小さく震え、傷の残る体を休めた。 セリアがそっと言う。 「あなた、もう隠れてるだけの子じゃないね」 その言葉に、俺は少しだけ目を伏せた。逃げるしかなかった頃の自分を、否定するつもりはない。あれがあったから、今がある。けれど、今の俺はもう違う。守りたいものができた。守れる場所も、見つけた。 夜、街から戻った薬師が礼を言いに来た。彼は俺を見て、以前のように身構えはしなかった。ただ、真っ直ぐに頭を下げる。 「森と街のあいだを守ってくれているんだな」 珍しい存在、では終わらない。 俺は小さく身を揺らし、月明かりの差す小屋の前へ出た。銀灰色の体が静かに光る。森の匂い、子どもの寝息、遠くの街の灯り。全部が、今はひとつの場所のように思えた。 逃げ場だった森は、いつの間にか帰る場所になっていた。俺はその境目に立ち、静かに次の朝を待った。
金属スライム、森を守る
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