雨上がりの森は、妙に静かだった。葉先から落ちる雫の音さえ、胸の奥にまで響くように感じる。俺は小屋の屋根の端で身を縮め、下の気配を探っていた。セリアは街へ向かったままだ。子どもたちは小屋の中で眠っている。守るべきものは、確かにここにあった。 だが、その静けさが、突然ひび割れた。 遠くで、乾いた爆ぜる音がした。続いて、鳥が一斉に飛び立つ。森の奥から、地面を揺らすほど重い足音が押し寄せてくる。ひとつではない。複数だ。しかも、迷っているのではなく、何かに追われている。いや、追い立てられている。 俺は地面へ飛び降りた。金属めいた身体が、湿った土に触れる。微かな震えが、森のあちこちから伝わってくる。焦り。怒り。恐れ。交じり合った気配の中心には、知らない人の声があった。 森の縁に、探索者たちが入ってきていた。 先頭の男は、長い棒で木の根を叩きながら進み、後ろの二人は見たことのない札のようなものを振りかざしている。そのたびに、木々の影がざわつき、奥から魔物の唸り声が返った。あれは追跡ではない。巣を荒らし、逃げ場を失わせ、追い込んでいる。森そのものを壊すやり方だった。 その先で、赤く濁った目の獣じみた魔物が三体、泡を吹くように荒れていた。普段なら森の奥でひっそり暮らしているはずの連中だ。だが今は、外へ押し出され、怒りの矛先を失って暴れている。 このままでは、小屋へ来る。 俺は決めた。逃げ道になるのではなく、道を変える。そうしなければ、何もかも巻き込まれる。 まず、俺はわざと目立つ場所へ転がった。銀灰色の体が、朝の薄い光を跳ね返す。探索者のひとりがこちらを見つけ、声を上げる。 「いたぞ、珍しいやつだ」 その一言に、少しだけ腹が立った。だが、怒っている暇はない。俺は地面の傾きを感じ取り、ぬかるみの浅いところへ滑り込む。次の瞬間、後ろから飛んできた網が空を切った。ほんの少し早く動けた。それだけで、生き残れる。 小屋の戸が開き、セリアが顔を出した。彼女は状況を一目で悟り、血の気の引いた声で叫ぶ。 「子どもたちを起こす。裏の水路へ逃げるわ」 俺は先に走った。正確には、転がった。だが、それで十分だった。倒木の下、沈みやすい泥、滑る石。これまで何度も通った道の危険を、俺は一つずつ身体で知っている。安全な場所を選び、危ない場所を避ける。その積み重ねが、今は誰かを生かす。 小屋へ戻ると、兄妹はすでに怯えた顔で起きていた。弟が俺を見て、小さく震えた声を出す。 「きらきら、こわいの?」 俺は首の代わりに全身を揺らした。違う、とは伝わらないかもしれない。それでも、妹がそっと触れてきた小さな指先は、恐れより先に信じようとしていた。 セリアが二人を抱き上げる。俺は先導して水路跡へ向かった。だが、そこで予定外のものに出会う。追い立てられた魔物の群れが、すでに森の道を塞いでいたのだ。探索者たちは後ろから押し、獣たちは前へ逃げようとしてぶつかり合う。森が軋むような音がした。 その中心に、ひときわ大きな影が現れた。土色の毛皮をまとった獣だ。だが、目は赤く濁り、口元は泡立っている。理性を失いかけている。暴れれば、木々は倒れ、人も魔物も区別なく傷つく。 俺は、迷わなかった。 影の進路へ飛び込み、石を弾く。音が目を引く。次の瞬間、俺は別の方向へ滑り、足元の泥を広げる。大きな影の前脚が沈み、勢いが鈍った。そこへセリアの声が飛ぶ。 「今よ、こっち!」 兄妹を抱えた彼女を、俺は空洞のある根元へ導く。以前から確かめていた隠れ道だ。人一人なら少し狭いが、子どもを抱えたままでも通れる。俺自身は身を平たくして隙間へ入り、反対側へ抜ける。 そのとき、探索者の男が叫んだ。 「追い込め、群れを崩せば金になる」 金になる。 その言葉で、森がただの獲物の山だと知った。胸の奥で、冷たいものがはじける。俺は地面を強く打ち、崩れやすい土をわざと落とした。男の足が取られる。続けて、脇の倒木へ体をぶつける。空洞のある木は鈍い音を立てて崩れ、追手の行く手を塞いだ。 その隙に、森の奥から別の咆哮が響いた。最初の魔物たちが、追い詰められた怒りを別の方向へ向け始める。探索者と魔物がぶつかり、混乱が一気に広がった。だが、もう流れは変わっていた。 俺は走った。いや、転がった。だが今度は逃げるためじゃない。水路の合流地点で足場を示し、倒れそうな荷を支え、迷う子どもたちの前を先に進む。小さい身体でも、できることはある。隙間を見つけ、危険をずらし、誰かを通す。 やがて、探索者たちの声が遠のいた。魔物の群れも、森の奥へ引き返し始める。最後に残ったのは、泥にまみれた道と、息を切らした俺たちだけだった。 夕暮れ、小屋の前でセリアが深く息を吐いた。兄妹は眠り、彼女は俺を見て、泣きそうな笑みを浮かべる。 「あなた、守れるんだね」 その言葉は、あまりにもまっすぐだった。珍しい。得体が知れない。そんなふうに見られてきた俺にとって、それはまるで別の名札みたいだった。 翌朝、街から来た薬師が森の被害を確かめに来た。彼は荒れた道を見て、次に俺を見た。そして、迷いなく頭を下げる。 「森を守ってくれてありがとう」 ありがとう。 たったそれだけで、自分の居場所がひとつ決まった気がした。 セリアは街と森をつなぐ新しい標識を立て、俺はその周囲を何度も確かめる。危ない石は押し戻し、沈む土は先に知らせる。人の通る道と、魔物の戻る森。その境目に立つのが、今の俺の役目だ。 銀灰色の体に朝日が差し込む。俺は静かに身を丸めた。逃げるために目覚めたはずだった生は、いつの間にか、誰かをつなぐための形に変わっていた。森と街のあいだで転がる、この小さな身体こそが、俺の答えだった。
金属スライム、森を守る
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