谷底の空気は、崖の上よりずっと湿っていた。霧が薄く地面を撫で、踏み荒らされた草の匂いに、誰かの緊張が混じっている。討伐隊の足は止まりかけていた。けれど、完全に引いたわけじゃない。灯りの列は散り、まだ森の奥へ戻るかどうかを迷っている。 俺は岩陰で息を潜めた。身体の奥がじんじんする。さっきまで光を返しすぎたせいで、輪郭がぼやけるほど疲れていた。それでも、結奈の気配だけは見失えない。 「……私、ここにいる」 震えた声が近くで落ちた。隊の誰かに気づかれぬよう、結奈は膝を抱えるみたいに身を縮めている。まだ安全とは言えない。森の結界は押し開かれたままではなく、閉じれば彼女が外へ出られない。だが、このままではいつ討伐隊に囲まれるかわからない。 俺は封印石のある方へ、最後の力を絞って跳ねた。 ぽん。 小さな音なのに、石の奥に眠っていた脈が返ってくる。ひとつ。ふたつ。石肌の冷たさに、森全体がゆっくり呼応する。結界が、きしむ。 「なに、今……」 誰かが声を上げた。俺はもう一度、石の縁を強く叩いた。震えが広がり、霧の向こうに薄い輪が浮かぶ。閉ざされていたはずの道が、ほんの少しだけ外へ開いた。 「結奈、今だ!」 言葉にはならない。けれど、俺は必死に結界の外へ向けて跳ねた。行け、という合図のつもりだった。 結奈は一瞬だけ迷った。だが次の瞬間、俺の反射した光を見て、はっと顔を上げる。 「……わかった」 その声は泣きそうだったのに、足はもう止まらなかった。彼女は開いた隙間へ身を滑らせ、森の外へ向かう。隊の灯りがそちらへ揺れかけたが、俺は封印石の前に跳び込み、さらに強く震わせた。 これ以上、追わせない。 結界が再び軋み、霧が厚くなる。森が結奈を押し出し、同時に俺を内側へ留めた。 「待て、あの子を――」 誰かの声が遠ざかる。結奈は振り返りかけたが、結界の光に遮られた。見えたのは、彼女の細い肩と、驚いたように見開かれた目だけだ。 俺はその場で、できる限り小さくなった。もうこれ以上光らないように。もうこれ以上、見つからないように。 結奈は無事に外へ出た。そこまでは、たしかだ。 だが、俺はまだ森の中にいる。 岩陰の闇は深く、身体は冷えていく。封印石の震えが収まるのを待ちながら、俺は静かに自分を隠した。誰にも見えないまま、ここに残る。それが、今の俺にできる最後の選択だった。 森の霧が、ゆっくり俺の上を覆っていく。
金属スライム、森を守る
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