エラベノベル堂

方言まちがい旅日記

全年齢

小説ID: cmnfnqs9q001y01o7cmj9rbtq

4章 / 全10

四日目の朝、美咲は山あいの小さな温泉町に降り立った。木造の駅舎を抜けると、川の音が近く、空気には湯けむりのやわらかな匂いが混じっている。港町で覚えた方言のメモを見返しながら歩いていると、土産屋の軒先から白髪の女将が声をかけてきた。 「あんだ、昨日のうわさの娘っこだべ」 美咲は思わず立ち止まった。昨日のうわさ、というだけで胸がざわつく。港町での大騒ぎは、もう終わったはずだった。それなのに、ここまで話が届いているのだろうか。女将はそんな美咲の顔を見て、面白そうに目を細めた。 「心配すんな。悪い話じゃねえよ。なんでも、町の古い祭りの案内を探してるんだって、聞いたべ」 「いえ、私はただ観光を」 言いかけたところで、女将はもう奥へ引っ込んでいた。代わりに出てきたのは、手ぬぐいを首にかけた若い男だった。彼は美咲の手元のノートを見て、ぱっと表情を明るくした。 「やっぱりだ。ここに来るなら、古い言い伝えを集めてる人かと思った」 どうやら、港町で町の古地図を見つけた話が、少し形を変えて伝わっているらしい。美咲は否定しようとしたが、男はもう半ば案内役の顔で、川沿いの石段へと彼女を促した。 石段を上ると、小さな神社があった。境内では、数人の年配の人たちが大きな紙を広げている。町内の祭りの順路図らしく、ところどころに書き込みが増え、赤い線が何本も引かれていた。女将が美咲を指して言う。 「この娘っこ、道に詳しいんだべ。古い案内が読めるんだと」 「そんなことは」 「だって、見つけたんだべ。あの紙を」 紙、という言葉で、美咲はようやく合点がいった。港町で見た古地図のことが、いつのまにか別の町の祭り準備の話と結びつき、さらに美咲自身が資料を探し出した人物だと膨らんでいる。彼女が困惑していると、神社の奥から神主らしい老人が現れた。 「まあ、そう責めるな。若い旅人が来るたび、町は少し騒がしくなる。けれど、その騒ぎで思い出すこともある」 老人はそう言って、紙の隅に書かれた古い地名を指さした。昔、この町と山向こうの集落をつないだ道があり、祭りの日には子どもたちがその道を走ったという。だが、いつしか道は草に埋もれ、名前だけが残った。祭りの順路図は、その失われた道を思い出すためのものだった。 美咲は、そこで初めて気づいた。自分はずっと、方言の意味だけを追いかけていたつもりだった。けれど実際には、土地の人が言葉に込めた記憶や、名前の奥にある暮らしまで、少しずつ受け取っていたのかもしれない。 「私、何かを探してたというより、皆さんの話を聞かせてもらってたんですね」 すると女将が、ふっと笑った。 「そうだべ。探してる顔して、いちばん大事なもんを受け取ってったんだ」 その言葉に、場の空気がやわらいだ。若い男は石段の上から町を見下ろし、ここから見える景色を美咲に教えた。湯宿の屋根、川の反射、遠くの稜線。どれも特別な観光名所ではないが、暮らす人にとっては日々の地図そのものだ。 夕方、温泉に入ったあと、美咲は湯上がりの縁側で女将に方言帳を見せた。女将は一つひとつ読み上げ、丁寧に言い換えてくれる。 「あんだは親しみをこめた呼び方だべ。けろは、やさしく背中を押す言い方。てんやわんやは、大騒ぎだけど、悪い騒ぎとは限らねえ」 美咲はノートの最後に、小さく書き足した。わからない言葉に出会うたび、少しずつ人の輪が広がる。 翌朝、駅まで見送りに来た町の人たちは、手を振りながら笑っていた。祭りの順路図は無事に完成し、失われた道の名前も、町の新しい案内板に残されることになったらしい。 「今度は、うちの祭りの日に来いよ」 「はい。次はもっと、ちゃんと分かるようになります」 「いや、分からなくてもいい。また来ればいい」 その言葉に、美咲は思わず笑った。電車が動き出し、窓の外で温泉町が遠ざかっていく。旅は終わるのに、言葉はまだ終わらない。知らないはずの土地が、もう少しだけ自分の中に残っている。美咲はノートを閉じ、次の行き先を見つめた。勘違いも、遠回りも、誰かのやさしさと重なれば、ちゃんと旅になるのだと知っていた。

4章 / 全10

TOPへ