五日目の朝、美咲は海辺の小さな町で目を覚ました。宿の窓を開けると、潮の匂いの向こうに朝靄がかかっている。これで旅も終わりに近い。けれど胸の中には、寂しさよりも、まだ知らない言葉に出会える期待のほうが強く残っていた。 朝市へ向かう途中、彼女は何度か聞いた言葉を思い返した。あんだ、けろ、てんやわんや。最初はどれも、風の音のように意味をつかめなかった。それが今では、声の向きや顔のやわらかさまで思い出せる。言葉は辞書の中だけにあるものではなく、人の表情や暮らしと一緒に生きているのだと、少しずつ分かってきた。 市場の入口で、昨日まで何度も世話を焼いてくれた案内所の男性が手を振った。その隣には、港町で古地図を見せてくれた女性もいる。さらに、温泉町の女将まで、なぜか今朝の便でやって来たという。美咲は目を丸くした。 「どうして皆さんがここに」 「最後くらい、ちゃんと送りたいべ」 女将はそう言って笑い、男性は少し照れたように顎を引いた。どうやら昨夜から、町ごとに連絡が回り、旅の終わりに合わせて集まってくれたらしい。美咲は、自分が知らないところで、方言も思い出も、ずっと人と人をつないでいたのだと知った。 そのとき、市場の奥から老婆が手招きした。美咲が近づくと、薄い和紙に包まれた小さな本を差し出す。表紙には、町ごとの古い言い回しが丁寧に書かれていた。 「これ、方言帳だべ。昔の言葉を忘れないように、持ち寄ってまとめたんだ」 ページを開くと、そこには美咲が旅の途中で何度も聞き返した言葉が並んでいた。しかも、単なる意味だけではない。どんなときに使うか、どんな顔で言うかまで、細かく書かれている。読み進めるうちに、美咲はある一語で手を止めた。 「だっちゃ、って、そういう意味だったんですね」 すると老婆が、目尻を下げた。 「意味だけじゃねえ。気持ちを丸くする言葉だべ」 その一言で、胸の奥がほどけた。彼女は旅のあいだ、何度も誤解し、恥ずかしい思いをし、そのたびに笑われてきた。でも今ならわかる。笑いの中には、相手を受け入れるやさしさがあった。勘違いは失敗ではなく、もう一歩近づくための入口だったのだ。 昼前、駅へ向かう道すがら、美咲はみんなに見送られた。男性はノートに追加の言葉を書き込み、女将はりんごを二つ押しつけ、老婆は最後にもう一度だけ言った。 「また来いよ。今度は、こっちが教わる番だべ」 美咲は思わず笑った。旅の最初は、言葉の意味を探していた。けれど今は違う。言葉の向こうにいる人を、少しでも知りたくなっている。 列車が動き出す。窓の外で、海と町と人影がゆっくり遠ざかる。美咲は方言帳を胸に抱き、静かに目を閉じた。知らない土地のはずなのに、そこにはもう、たくさんの顔と声が残っている。言葉が違っても、気持ちは届く。むしろ、わからなかったからこそ、忘れられない景色ができる。 次の旅先の駅名を見つめながら、美咲は小さくうなずいた。勘違いさえ、旅の土産になる。そう思えたとき、彼女の旅はようやく本当に始まったのだった。
方言まちがい旅日記
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