エラベノベル堂

方言まちがい旅日記

全年齢

小説ID: cmnfnqs9q001y01o7cmj9rbtq

6章 / 全10

六日目の朝、美咲は内陸の町に着いた。ここでの最後の一泊を終えれば、東北を巡る旅も締めくくりだ。駅を出ると、空は高く、風は乾いていた。これまでに覚えた方言を思い返しながら歩いていると、宿の看板を出していた若い女将が、顔を見るなりぱっと笑った。 「あんだ、昨日の娘っこだべ。ちょうどいいとこさ来た」 美咲は反射的に身構えた。ちょうどいい、という言葉は、これまで何度か思わぬ方向へ転がった。だが女将はそんな様子に構わず、彼女の手を引いて広間へ連れていく。そこには近所の人たちが何人も集まり、古い写真を広げていた。どれも町の祭りに関わるものらしく、子どもたちが紙の旗を持ち、若い男衆が神輿を担ぐ姿が写っている。 「これさ、明日の祭りの飾りに使うんだけど、文字の読み方がわからねくてよ」 写真の隅に書かれた細い文字は、かすれて読みにくい。美咲が覗き込むと、そこには昨日聞いたばかりの古い地名があった。けれど次の瞬間、女将がぽつりと言った。 「この地名、昔はこの辺じゃなくて、隣の村のほうさ付いてたんだと」 それを聞いた年配の男が、眉をひそめる。 「いや、違うべ。先祖の話じゃ、こっちの川筋だ」 美咲は、また自分が妙な騒ぎに巻き込まれたのだと悟った。けれど今回は、ただの誤解では終わらない気配があった。町の人たちは、古い写真の地名がどこに属するのかで言い合いを始め、しまいには誰が昔の記録を管理しているかまで話が飛んでいく。誰も声を荒げてはいないのに、空気はじわじわ熱を帯びていった。 そのとき、宿の奥から白髪の老人が杖をついて現れた。町内の古い記録をまとめていた元教師だという。彼は写真を一枚ずつ見比べ、地名の横にある小さな印を指した。 「これは場所の名じゃねえ。祭りで子どもが立つ順のことだ」 広間が静かになった。老人は続けて、昔は子どもたちが順番に立って旗を振り、その立ち位置を地名に見立てて呼んでいたのだと説明した。つまり、みんなが争っていたものは、土地の所有でも由来でもなく、祭りの役目を示す呼び名だったのだ。 美咲は思わず息をのんだ。旅の途中で見聞きした土地の言葉は、ただ意味を知るだけでは足りない。暮らしの中で、笑いや記憶と一緒に受け継がれていたのだ。 「それなら、あの名前は残したほうがいいんじゃないですか」 自分でも驚くほど自然に、そう口が出た。町の人たちが一斉に美咲を見る。彼女は少しだけ頬を熱くしながら、続けた。 「だって、名前があるから思い出せることってありますよね。どこで、誰が、何をしていたか。わからなくても、調べたくなるし、聞きたくなるし」 女将がゆっくりうなずいた。 「そうだな。あんた、ほんとに探しもの上手だべ」 その言い方に、広間はふっと和んだ。さっきまで地名をめぐって熱くなっていた人たちも、互いに顔を見合わせ、やがて小さく笑い出す。誰かが、じゃあ古い呼び名を祭りの看板に書き添えようと言い、別の誰かが、子どもたちにも由来を話してやろうと応じた。 夕方になるころには、写真の地名をめぐる騒ぎは、祭りの資料を見直すきっかけに変わっていた。美咲は広間の隅で、その様子を見ながらノートを開く。そこには、てんやわんや、けろ、あんだ、だっちゃ。意味を知った言葉たちが並んでいたが、今ではそれだけでは足りない気がした。言葉は、人が誰かを気づかうときの温度まで運んでくるのだ。 夜、宿の縁側で美咲が帰り支度をしていると、老人が方言帳の最後のページに一語を書き足してくれた。 「おんだら」 「これは、どういう意味ですか」 「また今度だ。帰ってきたときのための言葉だべ」 美咲は笑った。予想外の答えだったのに、なぜか胸にしみた。旅の最初は、わからない言葉に何度もつまずいた。けれど今は、そのつまずきさえ誰かとの会話の入口になっていた。 翌朝、駅まで見送りに来た町の人たちは、昨日の写真を手にしていた。祭りの看板には古い呼び名が添えられ、子どもたちに渡す説明書きもできたという。女将は小さな包みを差し出す。中には、干した果物と、新しく書かれた方言帳の写しが入っていた。 「また来いよ。今度は、道に迷っても笑ってる顔でな」 「はい。次は、もっと上手に聞き返します」 「聞き返してなんぼだべ」 その言葉に、美咲は深くうなずいた。列車が動き出す。窓の外で、町の屋根と人影がゆっくり遠ざかる。けれど、遠ざかるはずの景色は、どこか近くに残っていた。言葉が違っても、気持ちは通じる。誤解があったからこそ、相手の笑顔が忘れられない。美咲はノートを閉じ、次の駅名を見つめた。勘違いさえも、旅の終わりには大事な思い出になる。そう思えたとき、彼女の旅はただの移動ではなく、誰かの暮らしに触れた時間として、静かに心の中で続いていた。

6章 / 全10

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