エラベノベル堂

方言まちがい旅日記

全年齢

小説ID: cmnfnqs9q001y01o7cmj9rbtq

7章 / 全10

七日目の朝、美咲は県境に近い小さな盆地の町で目を覚ました。これが東北を巡る最後の一日になる。駅前の空気はひんやりしていて、遠くの山の稜線がくっきり見えた。旅の最初は、方言を聞き取れずに右往左往してばかりだったのに、今では耳に届く響きの奥に、誰かの暮らしが見える気がしていた。 宿の女将に見送られて朝の通りへ出ると、広場の方から慌ただしい声がした。今日は町の小さな市が立つ日で、春の終わりを告げる行事も重なるらしい。美咲が近づくと、案内板の前で人だかりができている。町内会の若い男が、困った顔で頭をかいていた。 「看板の字が一枚、どこさ行ったかわがんねえんだ」 美咲は、その言い方を聞いて少し胸がざわついた。わからない、と言うたびに町の人たちが大げさに受け取り、思わぬ騒ぎになったことを思い出したからだ。だが今回は、どうやら本当に看板の一部が足りないらしい。紙の台座だけが残り、肝心の文字札が見当たらない。 すると市場の奥から、昨日まで何度も顔を合わせた商店主が駆けてきた。 「おら、見たぞ。さっき美咲さんが持ってたノートの表紙に、似た字があったべ」 一斉に視線が集まる。美咲は驚いてノートを抱え直した。確かに表紙には、旅の途中で書き留めた方言や地名が並んでいる。だがその中に、看板に使う字と似たものがあったらしい。彼女が慌てて首を振るより早く、若い男が言った。 「やっぱり探してたのはこれだったんだな」 まただ。美咲は心の中で小さくうめいた。説明すればするほど、話が別の方向へ転がる。けれど、今回は逃げずに向き合うしかない。広場の中央に立つと、美咲は深呼吸して言った。 「私は看板を探してたんじゃありません。旅の途中で、言葉の意味をノートに書いていただけです。でも、もし役に立つなら、見せます」 彼女がノートを開くと、昨日、温泉町で教わった言い回しや、港町の古地図で見た古い地名が並んでいた。その中の一語に、年配の女性が目をとめる。 「あら、それは昔の市の呼び声だよ。うちの父ちゃんが使ってた」 その一言で、広場の空気が変わった。誰かが古い倉から木箱を運び出し、中を探ると、湿気で少し反った文字札が見つかった。足りないと思われていた看板は、片付けの途中で木箱に紛れていたのだ。大騒ぎの原因は、ほんのささいな行き違いだった。 だが、騒ぎはそれだけでは終わらなかった。文字札の裏には、古い筆跡で短い文が書かれていた。町のはずれにある祠の前で、毎年ひとつだけ笛を鳴らす。忘れるな、つなぐのは人の声だ。 集まった人たちは顔を見合わせた。若い男が言う。 「これ、じいさんの代からの決まりだったはずだ」 別の老人がうなずく。 「けれど近ごろは誰も気にかけてなかったな」 美咲は、その流れの速さに息をのんだ。看板の紛失から、いつの間にか町の古い約束まで掘り起こされている。自分はただ巻き込まれていただけなのに、気づけば誰かの記憶をつなぎ直すきっかけになっていた。 商店主がぽんと膝を打った。 「美咲さんが来たから、町が思い出したんだべ。言葉って、不思議だな」 その言葉に、広場のあちこちで笑いがこぼれた。美咲もつられて笑う。誤解は解けたのに、胸の奥には少しあたたかいざわめきが残っていた。 昼すぎ、町の人たちは祠へ向かい、古い笛を鳴らした。澄んだ音が盆地に広がると、山の向こうへ抜けていく風までやわらかく感じられた。美咲はその場に立ち、目を閉じた。言葉の意味を追いかけていたはずなのに、いつの間にか、土地の歴史や人と人の結びつきを受け取っていた。わからないからこそ、聞きたくなる。聞きたくなるから、心が近づく。 夕方、駅へ向かう坂道で、女将が小さな包みを持ってきた。中には、町で使われていた古い言い回しをまとめた紙と、干した果物が入っている。 「ほれ、最後の土産だ。おんだら、って書いてあるべ」 「帰ってきたときのための言葉、でしたよね」 女将は満足そうにうなずいた。 「ちゃんと覚えたな」 列車が動き出す。窓の外では、さっきまで騒がしかった広場が、もう遠い景色になっていく。けれど、美咲の中では、笑い声も笛の音も、まだはっきり鳴っていた。言葉が違っても、気持ちは通じる。勘違いさえ、誰かと近づくための道になる。 美咲はノートを閉じ、次に開くページの余白へ小さく書いた。旅は終わる。でも、また戻りたくなる場所ができた。そう思えた瞬間、彼女の胸には、出発した日にはなかった静かな自信が灯っていた。

7章 / 全10

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