八日目の朝、美咲は最後の目的地となる町へ降り立った。小さな駅を出ると、朝霧の向こうに商店街の屋根が連なり、遠くで鐘の音がかすかに響いている。これで東北を巡る旅も締めくくりだと思うと、胸の奥に少しだけ寂しさが差した。それでも足取りは軽い。知らない言葉に怯えていた最初の自分が、もう遠くにいる気がしたからだ。 駅前の広場では、ちょうど朝の集まりが始まるところだった。町内会の人たちが、古い木箱を囲んで何やら相談している。美咲がそっと通り過ぎようとした瞬間、年配の女性が彼女を見つけて声を上げた。 「ほら、来た来た。あの娘っこだべ」 一斉に視線が集まり、美咲は思わず足を止めた。あの娘っこ、という呼び方には聞き慣れた親しみがある。だが、どうして自分がここで呼ばれるのか分からない。女性は満足げにうなずくと、木箱の中の紙束を持ち上げた。 「昨日、案内所で預けた方言帳の写し、あんたが見つけたんだってな」 「写し、ですか。私、ただノートを見せただけで」 言いかけた美咲の言葉は、すぐ別の解釈へ転がった。近くにいた若い男が、感心したように頷く。 「やっぱり、町の大事な言葉を拾い集めてるんだな」 どうやら昨夜、美咲が各町で書きためたメモが、町内会の話し合いで思わぬ形に広がっていたらしい。彼女はただ、旅の終わりに方言の整理をしていただけなのに、ここでは古い言い回しを掘り起こす役目を担ったことになっている。 そのとき、案内所の男性が息を切らして駆け込んできた。手には一枚の古い紙がある。 「見つかったぞ。いや、見つけたのはこの娘さんのノートかもしれねえ」 紙には、町の中心から祠へ続く昔の道筋と、行事の順番が記されていた。ところが、文字の一部が擦れていて読みにくい。美咲がのぞき込むと、ノートに書き写した言葉と驚くほど似ていることに気づいた。町の人たちは、彼女がその意味を知っていると考え、次々に説明を求め始める。 「この言葉、急げって意味だべか」 「いや、やさしく背中を押す感じじゃないか」 「まてまて、こっちは祭りの掛け声だ」 質問が重なるほど、美咲はますます答えに詰まった。だが、そこで逃げたらまた誤解がふくらむだけだと分かっていた。彼女は深呼吸して、ノートを胸の前に開く。 「私が知っているのは、意味だけじゃなくて、聞いたときの雰囲気です。けれど、皆さんの話をつなげることならできます」 広場が静かになった。美咲は、これまで訪れた町で教わった言葉を一つずつ並べた。てんやわんやは大騒ぎ。けろは、気楽に。あんだは親しみをこめた呼びかけ。だっちゃは、気持ちを丸くする響き。そして、おんだらは、また戻ってくるための言葉。 その最後の一語に、年配の女性が目を細めた。 「そうそう、それだべ。昔はな、道が分かれるたびに、その言葉をかけたんだ。戻ってこいよ、って意味もあった」 美咲は胸が熱くなった。自分はずっと、方言の正しい意味を追いかけていた。けれど本当は、言葉の向こうにある人の記憶や願いを受け取っていたのだと、ようやく分かった気がした。 木箱の中から出てきた古い紙束は、町の行事の記録だけでなく、昔の子どもたちが書いた覚え書きも含んでいた。そこには、失われた道の名前や、祠で鳴らす笛の時刻、そして顔見知り同士が交わす合図の言葉が残っている。誰かがそれを読み上げるたび、町の人たちの表情が少しずつ和らいでいった。 「言葉が残ってたから、道も残せるかもしれねえな」 誰かのその一言で、広場の空気が変わった。古い道を整え直し、祠までの案内板を作ろうという話が、自然にまとまっていく。美咲はその様子を見ながら、誤解が騒ぎを生み、その騒ぎが土地の記憶を呼び起こすこともあるのだと知った。 昼下がり、町の人たちは小さな祠へ向かい、古い笛を鳴らした。澄んだ音が広がると、あちこちで笑い声が上がる。美咲はその輪の外側で、そっと目を閉じた。東北を巡るあいだに聞いた言葉の数々が、ただの単語ではなく、誰かの暮らしの温度として胸に残っている。 夕方、駅へ向かう道で、女性が小さな包みを手渡してきた。中には、町ごとの方言を書き留めた冊子と、干した果物が入っている。 「また来いよ。今度は、道に迷っても笑ってけろ」 「はい。今度は、聞き返すのも怖がらないで来ます」 「それでいいんだべ」 列車が動き出す。窓の外で、町の灯が一つずつともり、やがて夕闇に溶けていく。美咲は冊子を抱きしめた。言葉は違っても、気持ちはちゃんと届く。わからなかったからこそ、何度も聞きたくなったし、そのたびに人が笑って教えてくれた。勘違いさえ、旅の終わりには忘れられない思い出になる。 美咲は小さく息をつき、次の旅先の名を見つめた。もう怖くない。知らない言葉の向こうに、また誰かのやさしさが待っている。そう思えたとき、彼女の旅は本当に次へ続いていった。
方言まちがい旅日記
全年齢小説ID: cmnfnqs9q001y01o7cmj9rbtq
