案内所の扉をくぐった瞬間、空気の温度が少し変わった。外の広場のざわめきが薄れ、紙をめくる音と、低い声のやり取りがやけに近く感じる。美里は胸の奥で、ずっとほどけなかった糸をつまんだ気分になった。 「すみません。昨日からのこと、もう一度整理したいんです」 受付の女性は少し驚いた顔をしたが、すぐにうなずいた。 「もちろん。何かわかったの?」 「たぶんですけど。方言の聞き違いと、案内表示のわかりにくさと、それから……演出の人たちの動きが重なっていたんだと思います」 自分の声が思ったよりはっきりしていて、美里は少しだけ肩を強ばらせた。地図の端、商店街で受け取った小さな紙、会場裏で書き足したメモ。ばらばらだった線が、今は一本に見える。 「あと、誰かがあやしいってなったのも、実際には迷っていただけで」 「演出担当の人ね」 奥から顔を出した男性が、苦笑しながら言った。 「あれはこっちの案内が足りなかった。裏手の表示が少なくて、初めて来た人には分かりにくかったんだ」 美里は息をのんだ。やっぱり、と言う前に、別の職員が笑った。 「それに、君が拾ってくれた言葉が、逆に全部きれいにつながったんだよ」 「つながった、ですか」 「そう。あわてて聞き返して、確認して、動いてくれたおかげでね」 女性が机の上に置いた資料を軽くたたく。 「実は町おこしの仕掛けとして、あのイベントは少しだけ“目立つ迷い”が出るように組んであったの。案内の動線を工夫して、来た人が地元の人に話しかけやすくするために」 美里は目を丸くした。そんな意図があったなんて、夢にも思わなかった。 「じゃあ、あの騒ぎって……」 「半分は想定内。半分は、あなたの真面目さが想定以上だった、かな」 くすっと笑いが広がる。美里は机の端を見つめたまま、耳まで熱くなった。 「私、解決したんじゃなくて」 「ええ。きっかけになったんだと思う」 「きっかけ、ですか」 「そう。大きくしてくれたのは、うちの仕掛けと、あなたの一生懸命さ」 それは、褒め言葉なのか、もっと別のものなのか。美里にはうまく判断できなかった。ただ、胸の中で何かがくすぐったく跳ねる。 「でも、私……ずっと、事件を収めたみたいに言われてて」 「それも、まあ間違いじゃないよ」 受付の女性が目を細める。 「あなたがいなかったら、あの流れは途中でこぼれてた。誤解は重なったけど、人の親切も重なった。そういう町の見え方になったのは、あなたのおかげでもある」 美里は言葉に詰まった。自分が誰かを助けたのだと信じたかったわけじゃない。ただ、少しでも役に立てたと思いたかっただけだ。それなのに、実際には誤解を増やした側でもあったと知ると、頬がひどく熱くなる。 「……恥ずかしいです」 「いいことじゃない。旅の恥は、あとで笑える」 そう返されて、美里はとうとう顔を伏せた。机の上の地図がぼやけて見える。 「笑える、かな……」 「笑えるよ。もう充分、笑い話になってる」 その一言に、案内所の空気がさらに和らいだ。外から子どもの声が聞こえ、誰かが窓口の前を通り過ぎる。美里はゆっくり顔を上げた。 「じゃあ、私は本当に、ただのきっかけだったんですね」 「ええ。しかも、ずいぶんにぎやかなきっかけだった」 もう一度笑いが起きる。美里は赤くなった頬を隠すように、受け取った地図を両手で持ち直した。自分は何もかも正しくできたわけじゃない。けれど、正しくないままでも、誰かの流れに混ざってしまうことはある。 案内所のガラス越しに、春の光が白く差し込む。美里はその光の中で、まだうまく言えないまま、小さく会釈した。
方言まちがい旅日記
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