エラベノベル堂

方言まちがい旅日記

全年齢

小説ID: cmnfnqs9q001y01o7cmj9rbtq

9章 / 全10

九日目の朝、美咲は県境近くの古い宿場町に降り立った。これで東北を巡る旅も最後だと思うと、少し胸がきゅっとした。それでも足取りは重くない。これまで何度も方言を取り違え、恥をかき、笑われ、そのたびに人のやさしさを知ってきたからだ。駅前の通りには、まだ朝の冷たさが残っていたが、商店の戸はもう開き始めていた。 広場では、町内会の人たちが古い掲示板の前で何やら相談していた。美咲が横を通り過ぎようとすると、年配の女性がぱっと顔を上げた。 「あんだ、ちょうどいいとこに来たべ」 その一言で、美咲の背筋が少し伸びる。ちょうどいい、という言葉は、これまで何度も思わぬ騒ぎの入口になってきたからだ。案の定、女性は美咲の手元のノートを見て、満足げにうなずいた。 「昨日、案内所に預けた古い紙、あんたが見つけたんだってな」 「いえ、私はただメモを見せただけで」 言い終わる前に、周りの人たちの顔つきが変わった。若い男は感心したように腕を組み、別の老人は掲示板の端を指で叩く。 「やっぱり、町の言葉を集めて回ってたんだべ」 どうやら美咲のノートが、町の人たちの間で勝手に膨らみ、失われた古い道や祭りの順番を読み解くためのものだと思われているらしい。彼女はただ、旅の終わりに聞いた方言を書き留めていただけなのに、ここでは妙に重要な役を背負わされていた。 そのとき、案内所の男性が息を切らして駆けてきた。手には、しわの寄った古い紙が一枚ある。 「見つかったぞ。いや、見つけたのはこの娘さんのノートかもしれねえ」 紙には、町の外れの祠へ続く昔の道筋と、行事で笛を鳴らす順が書かれていた。ところが、文字の一部が擦れて読みにくい。美咲がのぞき込むと、昨日までに聞いた方言のメモと、いくつかの言い回しが驚くほど似ていることに気づいた。町の人たちはそれを見て、ますます彼女に説明を求める。 「これは急げって意味か」 「いや、やさしく背中を押す言い方だべ」 「こっちは呼びかけだな」 問いが重なるたび、美咲は少しずつ笑いそうになるのをこらえた。説明すればするほど話がこじれるのは、もう何度も経験している。けれど今回は逃げずに、ノートを開いた。 「私がわかるのは、意味だけじゃありません。聞いたときの感じや、使っていた人の表情も、少しだけ覚えています」 広場が静かになった。美咲は、旅の途中で聞いた言葉を一つずつ並べた。てんやわんやは大騒ぎ。けろは、気楽に。あんだは親しみをこめた呼びかけ。だっちゃは、気持ちを丸くする響き。そして、おんだらは、また戻ってくるための言葉。 最後の一語で、年配の女性が目を細めた。 「そうそう、それだべ。昔はな、道が分かれるところでその言葉をかけたんだ。戻ってこいよって意味もあった」 美咲は思わず息をのんだ。自分はずっと、方言の正しい意味だけを追いかけていた。けれど本当は、言葉の向こうにある暮らしや願いを受け取っていたのだと、ようやく分かった気がした。 古い紙の裏には、祠の前で笛を鳴らす時刻と、昔の子どもたちが立つ順番まで残っていた。誰かがそれを読み上げるたび、町の人たちの顔が少しずつほどけていく。失われた道は、たどればもう見えなくても、名前を呼ぶことで確かにそこに戻ってきた。 「言葉が残ってたから、道も思い出せたな」 誰かのその一言で、広場に温かい笑いが広がった。大騒ぎの中心にいたはずの美咲も、もう気まずくはなかった。むしろ、何度もすれ違ったからこそ、ここまで町の記憶に触れられたのだと思えた。 昼下がり、祠の前で古い笛が鳴らされた。澄んだ音が風に乗ると、宿場町の屋根も、遠くの山影も、少しだけ昔の色を取り戻したように見えた。美咲はその場に立ち、静かに目を閉じた。わからなかった言葉が、今では人の輪郭ごと胸に残っている。 夕方、駅へ向かう道で、女性が小さな包みを渡してきた。中には、町ごとの方言をまとめた冊子と、干した果物が入っている。 「また来いよ。今度は、道に迷っても笑ってけろ」 「はい。次は、聞き返すのも怖がりません」 「それでいいんだべ」 列車が動き出す。窓の外で、町の灯がひとつずつともり、やがて夕闇に溶けていく。美咲は冊子を抱きしめた。言葉は違っても、気持ちはちゃんと届く。わからなかったからこそ、何度も聞きたくなり、そのたびに誰かが笑って教えてくれた。勘違いさえ、旅の終わりには忘れられない思い出になる。 美咲は小さく息をつき、次の旅先の名を見つめた。もう怖くない。知らない言葉の向こうには、また誰かのやさしさが待っている。そう思えたとき、彼女の旅は本当に次へ続いていった。

9章 / 全10

TOPへ