エラベノベル堂

大賢者の再起

全年齢

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5章 / 全10

扉の向こうから聞こえたのは、確かに俺の声だった。 低く、よく通り、どこか疲れ切った声。だが、それは喉から出た言葉ではなく、石の奥でこだまする記憶そのものに近かった。広場にいた人々はまだ何が起きたのか理解していない。ただ給水塔の周囲で空気が揺れ、見えない圧が石畳を撫でるたび、桶を抱えた手が震えている。 ルークは鍵札を奪おうとしたが、遅かった。紋章は青白く光り、塔の壁面が静かに割れていく。現れたのは階段ではない。下へ、さらに下へと続く螺旋の穴だった。冷えた風が吹き上がり、古い紙と湿った土と、長く閉じ込められた時間の匂いが混じっていた。 「これは何だ」 俺が問うと、ルークは顔を伏せたまま答えない。代わりに、塔の陰からもう一人、人影が現れた。学匠院の上級司書、白髪混じりの老女だった。彼女は俺を見るなり、深く頭を下げた。 「お戻りでしたか、大賢者様。いえ、正しくは、継ぎ手様」 継ぎ手。その響きは、胸の奥の鍵穴にぴたりとはまった。 老女は続けた。この街はただの都市ではない。王都の地下に眠る巨大な封印装置の上に築かれ、何世代にもわたり均衡を保ってきた。だが封印は、敵を閉じ込めるためだけのものではない。世界の外側から滲み出るものを、内へ入れないための蓋でもある。封印を維持するためには、定期的に鍵が必要で、その鍵を扱えるのが大賢者だった。 「では、俺は守るために呼ばれたのか」 「守るだけでは足りません。賢者は扉の管理者です。開けるか閉めるかを決めるのは、あなたです」 その言葉に、頭の奥で無数の断片がつながった。前世の記憶と、この世界の知識が重なり、失われていた頁が一気に埋まっていく。俺は戻されたのではない。古い賢者の知識を受け継ぐ器として、何度も選び直されてきたのだ。平凡な会社員だった自分も、その輪の外ではなかった。あの終わりは終わりではなく、役目へ至るための入り口だった。 だが、理解した瞬間、地下から響く声が強くなった。 来い。 今度ははっきりと、俺の名を呼んでいる。いや、名ではない。俺がまだ持っていなかった記憶の欠片を揺さぶり、扉の奥へ誘う呼び声だった。足が勝手に動きそうになる。石段の先、暗闇の向こうで、何かが目を覚ました。 そのときルークが、震える手で俺の腕を掴んだ。 「行かないでください。あそこにいるのは、あなたの残りじゃない。あなたを使い捨てにした連中の声です」 老女も静かに頷いた。 「選びなさい。封印を継ぐか、壊すか。どちらを選んでも、世界は変わります」 見上げれば、給水塔の上で朝日が傾き始めていた。街の人々はまだ井戸の順番を守り、子どもは水音に笑っている。こんなささやかな日常を、俺は何度も直してきた。だが今、目の前にあるのは修繕ではない。未来そのものの分岐だ。 地下からの声が、もう一度だけ囁いた。 お前は、ここに戻るために死んだ。 俺は息を呑み、それからゆっくりとルークの手を外した。恐怖はあった。けれど不思議と、逃げたいとは思わなかった。自分が何者かを知るためではなく、誰かに決められた役目をそのまま受け入れるためでもない。俺は、自分の意志で未来を選びたかった。 「降りる」 その一言に、ルークが目を見開く。老女はただ、どこか安堵したように微笑んだ。 螺旋の穴へ足を踏み入れた瞬間、背後で広場の水音が高く鳴った。街じゅうの管が一斉に震え、封印の眠りが深く息を吐く。だが俺の隣には、迷いながらもついてくる二人がいた。ひとりでは届かなかった場所へ行くために、知恵だけでなく、信じる手が必要だった。 暗闇の底で、ようやく本当の扉が開く音がした。

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