エラベノベル堂

村人として生き直す

全年齢

小説ID: cmnfntwl6002j01o7u1ilk2zn

2章 / 全10

「じゃあ、これをそっちへ運んでくれ。落とすなよ」 「はい、任せてください」 広場を抜けて少し歩いた先の畑は、朝の光を受けて淡く白んでいた。土は昨夜の湿り気をまだ少し残し、鍬を入れるたびに重たい匂いが立つ。俺は言われるまま、苗束を抱えて畝の端へ運び、折れた支柱を拾い、空になった桶を水場へ戻した。派手な仕事じゃない。けれど、こういう雑用を黙ってこなしていると、周囲の視線が少しずつやわらいでいくのがわかった。 「村人Aにしては、気が利くじゃないか」 畑の向こうで笑われて、思わず肩をすくめる。 「村人Aだから、かな」 「なんだそれ」 笑いが起きる。俺もつられて笑った。どうやら、変に目立たず、手を動かしていれば受け入れてもらえるらしい。それだけで十分だった。 鍬を休めたところで、隣の老女が腰を伸ばしながら言った。 「そういえば、また帳面が空白だったよ」 「空白?」 「毎週さ。決まった頁だけ、何を書いたのか思い出せないんだよ。誰も気にしないけどね」 別の男が、わざとらしく肩をすくめる。 「気にしたら損だ。昔からそうなんだって。余計なところに首を突っ込むと、ろくなことがない。あの森側の立ち入り禁止の話も同じさ」 「森側?」 「村の外れにあるだろ。近づくなって、子どものころから言われてる。理由は誰も説明できない」 老女が笑い、しかし声は少しだけ下がった。 「説明できないことは、だいたい説明しない方がいいのさ。村ってのは、そういうもんだよ」 俺は手にした苗を見下ろした。空白の記録。理由のない禁制。どれも、村の人たちにとっては慣れた日常らしい。けれど、妙なことに、その話を聞いた瞬間だけ胸の奥がざわついた。 毎週決まって空く頁。なぜそんな妙な綻びが、誰にも不思議がられていないんだ。 俺だけが、その違和感を拾っている。 いや、拾ってしまう、という方が近い。 「おい、手が止まってるぞ」 「あ、すみません」 急いで鍬を持ち直す。土を返すたび、さっきの会話が頭の中で小さく反響した。村人Aだからこそ、誰も気にしない隙間が見えるのか。それとも、最初から俺のために隙間が空いているのか。 答えはまだ見えない。それでも、畑の端で風に揺れる若い芽を見ていると、この村の静けさの裏に、何かが隠れている気がしてならなかった。

2章 / 全10

TOPへ