エラベノベル堂

村人として生き直す

全年齢

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3章 / 全10

ミナトは木箱の前でしばらく動けなかった。蓋に刻まれた印は、見間違えようもないほど覚えがあった。前の世界で、毎日のように目にしていた会社の略符。だが、この村の暮らしの中にそれがあること自体が、現実の輪郭を薄く揺らしていた。 指先で印をなぞる。冷えた木肌が、月明かりを吸っているように見えた。箱を持ち上げると意外に重い。中身を確かめようとしたところで、背後から咳払いがした。 「それは、あんた宛てだよ」 振り返ると、納屋の隙間から、昼間の女が顔をのぞかせていた。髪を布でまとめ、腕に草束を抱えている。 「誰から」 「知らないね。村の外れを通った行商が、置いていったんだ。あんたの名前があるって言うから、預かっといた」 言われて、ミナトは箱の側面を見る。薄い文字で、確かに自分の名が書かれている。だが字の癖が違う。前世の記憶にある書式とも、今の村の記し方とも似ていて、どこか歪んでいる。 小屋の中で箱を開けると、古びた手帳と、金属の小さな部品がいくつも入っていた。見覚えのある規格のねじ、薄い板、磨り減った計算札のような紙片。最後に、一枚だけ折り畳まれた紙があった。 そこには、簡単な図と、短い文が記されていた。 まだ戻るな 心臓が跳ねた。誰が書いたのか分からない。だが文字は、たしかに自分のものに近かった。いや、もっと正確にいえば、自分が昔、何度も写した文面の癖に似ている。頭の奥で、忘れていたはずの雑音が一斉にざわついた。 翌朝、ミナトは村長に箱のことを告げた。老人は難しい顔で手帳をめくり、首をひねる。 「こんな細工、見たことがないな。だが、役に立ちそうだ」 手帳には、畑の水路の引き方、雨水を溜める桶の置き方、壊れた道具を生かす組み合わせ方が、丁寧に記されていた。どれも村で今すぐ試せるものばかりだった。ミナトは胸の奥のざわめきを押し込み、村人たちと一緒に水路を掘り直した。浅い溝を少し曲げ、石を並べ、流れを分ける。すると昨夜までぬかるんでいた場所が、嘘のように乾いた。 「これなら、雨が来ても作物が腐りにくい」 誰かが言い、別の誰かが感心したように息をのむ。ミナトはただ頷いた。だが、うまくいった喜びよりも、手帳の異様さのほうが頭から離れない。前の世界の知識が、なぜこの村に残されている。しかも、まるで最初から彼がここへ来ると知っていたみたいに。 夕方、女が納屋の戸口で待っていた。 「村長から聞いたよ。あの手帳、あんたの役に立ったみたいだね」 「ああ。でも、どこから来たのか分からない」 「分からないなら、使えるうちに使えばいいさ」 あまりにあっさりした言い方に、ミナトは思わず笑った。確かに、この村では答えのないものを抱えたままでも、生きることはできる。 だがその夜、手帳の最後のページを開いた瞬間、彼は息を止めた。そこには、まだ書きかけの行があった。紙の端に押された薄い文字は、今しがた自分が見たばかりのものと同じだった。 ミナトへ その先は、空白だった。

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