「あ、桶、こっちに回してくれ」 「はい」 昼の日差しは、村の井戸の縁を白く照り返していた。木桶が綱に揺られ、ぎしりと軋むたび、水面が浅く震える。俺は両手でそれを受け取り、肩に担いだ。軽くはないが、慣れてしまえばどうということもない。 「若いのは助かるねえ」 井戸端で腰を下ろしていた老人が、目じりを下げる。隣では子どもがひしゃくを握りしめ、順番を待ちながら足をぶらぶらさせていた。 「次、ぼく」 「焦るな焦るな。水は逃げないよ」 そんなやり取りを聞きながら、俺は桶を据え、滑車を引いた。水はいつも通り澄んでいる。底に落ちていく自分の影も、いつも通りだ。そう思った、その瞬間だった。 水面が、ふっと揺らいだ。 「……ん?」 見間違いかと思って目を凝らす。だが井戸の中に映っていたのは、さっきまでの青空ではなかった。石壁でも、空でもない。見知らぬ通路のような、細くて暗い場所が一瞬だけ覗き、次の瞬間には何事もなかったように空が戻る。 俺は思わず身を乗り出した。 「どうしたの?」 子どもの声で我に返る。 「いや、なんでもない」 そう答えながら、胸の奥が妙に速く鳴っていた。井戸に顔を近づける。今度はただの水だ。けれど、さっきの一瞬が脳裏に焼きついて離れない。 老人が桶を受け取りながら、のんびり言う。 「ここの水はよく冷えるからねえ。見てると吸い込まれそうになるだろ」 「……そうですね」 笑ってごまかしたが、違う。今のはそういう錯覚じゃない。確かに、別の場所が映っていた。 俺はもう一度、そっと水面をのぞき込んだ。村の屋根が揺れ、雲が流れる。だが目を逸らしかけた拍子に、また一瞬だけ景色が変わる。今度はもっと短く、まばたきの隙間みたいに。 何かを確かめようとしている、みたいだった。 「……見えた」 声が漏れる。 誰も気にしていない。子どもは水を待ち、老人は日向で笑い、井戸はいつも通り静かだ。なのに、俺だけが知ってしまった。 村の平穏は、ただ平穏なだけじゃない。 その奥に、まだ触れてはいけない何かが沈んでいる。 俺は桶を持ったまま、水面から目を離せずにいた。
村人として生き直す
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