翌朝、ミナトは村の広場でその手帳をもう一度開いた。風が紙の端をめくり、昨日まで乾いていた土の匂いを運んでくる。最後のページに残された宛名は、やはり彼の名だった。けれど、その下は空白のまま、誰かが続きを待つように白く沈んでいる。 村長は手帳を覗き込み、しばらく黙ってから低くうなずいた。 「書ける者が残したのだろう。だが、これが本物かどうかを決めるのは急がんほうがいいな」 ミナトは頷いた。答えがないことに慣れつつあった。だが、昨日までの自分なら、そんな曖昧さに耐えられなかったはずだ。ここでの暮らしは、わずかな修繕と、少しの工夫と、誰かの困りごとをひとつずつ片づけることで進んでいく。手帳の正体も、きっと同じように、急がずほどくしかないのだろう。 その日のうちに、村では小さな仕事が次々持ち込まれた。雨水を逃がす溝の整備、壊れた戸車の交換、収穫籠の編み直し。ミナトは手帳の図を確かめながら、村人たちに混じって動いた。紙に書かれていた通り、石を一列だけずらすと水の流れは見違えるほど落ち着いたし、戸車に薄く削った木片を噛ませると、重い扉もするりと動くようになった。 「ほんとに、あんたは不思議だねえ」 昼前、納屋の女が笑った。 「何がですか」 「できることが増えるたび、顔はちっとも偉くならない。そこがいいのさ」 笑われたが、胸の奥は少しだけ温かくなった。役に立つたびに、村の誰かが自分を名で呼ぶ。その積み重ねが、かつて失った輪郭を静かに埋めていく。 だが、夕方近くになって、広場の外れで不穏な声が上がった。村の境に近い道で、見知らぬ男が荷を抱えたまま立ち尽くしているという。旅人かと思えば、荷の中身はほとんど空で、代わりに水でにじんだ紙束がひとつ。村人たちは警戒し、男は疲れ切った顔で言った。 「この村に、これを届けろと言われた」 差し出された紙を見て、ミナトは息を止めた。そこに押されていた印は、木箱と同じだった。しかも、破れた紙の隅には、手帳と同じ筆跡で短く書かれている。 ここまで来たなら、次は自分で選べ 村長も、納屋の女も、その文を覗き込んで顔を見合わせた。ミナトだけが、言葉の意味をすぐには飲み込めずにいた。選ぶ。何を。どこへ。 男は荷を下ろし、ほっとしたようにその場に座り込む。 「俺は言われた通り運んだだけだ。受け取ったら帰る」 ミナトは紙を持ったまま、遠くの山並みを見た。夕陽は村の屋根を赤く染め、どの家の煙もまっすぐにのぼっている。ここを離れれば、何か大きな答えに近づくのかもしれない。けれど、広場では子どもたちが木槌を振るう音に笑い、井戸では誰かが水を汲み、壊れていた戸はもうきしみも少ない。 選ぶべきものは、遠い真実だけではない。 ミナトは紙を折りたたみ、村長へ差し出した。 「行きます。でも、ひとりじゃないほうがいい」 その言葉に、村長はゆっくり笑った。 「なら、村の者を連れていけ。お前はもう、ただの通りすがりじゃない」 その夜、荷造りを終えたミナトは、小屋の外で立ち止まった。小さな村は、静かに眠り始めている。だが、その静けさは頼りないものではなかった。誰かが見守り、支え合い、明日の分を少しずつ積み重ねてできた音のないぬくもりだ。 ミナトは木箱を肩にかけ、振り返った。見知らぬ世界で始まったはずの暮らしは、いつの間にか、自分が戻るべき場所になっていた。空白の先に何が待つのかは分からない。それでも彼は、村の灯りを背に、最初の一歩を踏み出した。
村人として生き直す
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