翌朝の空気は、やけに乾いていた。露が降りるはずの草も、土も、指で触れれば粉のように崩れそうなほど軽い。ミナトは村の外れに立ち、畑を見渡した。葉はしおれ、畝の間の泥はひび割れている。遠くの山に雲はあるのに、こちらへ流れてくる気配がない。 昨夜、木箱と手帳を確かめたあとで、村長と話し合った。山向こうの水源を巡る道が塞がれたらしい。近隣の村が先に使っているため、こちらは後回しにされる。さらに、干し草の納入も遅れ、冬を前に備蓄が細る。ひとつひとつは小さい。だが重なれば、暮らしの芯を削っていく。 広場では、昨日届いた紙を前にして村人たちが口を閉ざしていた。あの文は、やはりただの案内ではない。ここまで来たなら、次は自分で選べ。その一文が、朝の冷えた空気よりも鋭く胸に残っている。 ミナトは村長の前に立った。 「水路を変えます。川から引くだけじゃ足りない。雨を逃がす溝を増やして、貯める場所も作る。あと、近くの村と話し合う道を考えたいです」 村長は眉を寄せたが、すぐにうなずいた。 「話し合いか。争えば早いが、あとに残る」 村の女たちは干し草の束を抱え直し、男たちは鍬を担いだ。誰かが笑って、誰かがため息をつく。だが動き出せば、体はちゃんと答える。ミナトは手帳を開き、図を指でなぞった。浅い溝をいくつかに分け、石を並べ、桶を半地中に埋める。雨が少なくても失わない形に変えるのだ。 昼前、隣村から使いの者が来た。険しい顔で、こちらの畑へ踏み込みそうな勢いだった。 「こっちが水を取るから、そっちが足りなくなる。話はそれだけだ」 ミナトは、相手の視線を受け止めた。怒りはよく分かる。どちらも余裕がないのだ。 「なら、順番を決めましょう。いま必要なのは、奪い合いじゃなくて、減る水をどう持たせるかです」 最初は鼻で笑われた。だが、彼は畝の低い位置に据える桶と、雨を逃がす細い溝の説明を、泥で地面に描いて示した。さらに、木箱に入っていた紙片の一枚をめくる。そこには、互いの村で分け合える乾燥野菜の保存法が、簡潔にまとめられていた。 使いの者の表情が、少しずつ変わる。 「これを、どこで覚えた」 「覚えていたんじゃない。ここで必要になっただけです」 その答えに、相手は黙った。しばらくして、うちの村長も交えて、両村の者が地べたに膝をつき、泥の上で水の道を描き始めた。誰かの知恵を笑う者はいない。生きるためには、面子よりも先に手を動かすしかないからだ。 夕方、最初の雨が落ちてきた。遅すぎた雲が、ようやく村を見つけたように、ぽつりぽつりと地面を叩く。新しく掘った溝に水が走り、桶へ落ち、ひび割れた畑の端へ静かに広がる。歓声が上がった。大げさな奇跡ではない。ただ、明日につながるだけの量が確かに残る。 だが、そのときだった。広場の端で、紙を運んでいた旅の男が、ふらりと膝をついた。胸元からこぼれた封書には、あの木箱と同じ印がある。ミナトが駆け寄るより先に、男はかすれた声で笑った。 「やっと……間に合ったな」 「誰だ」 男はミナトを見上げ、雨の中で目を細めた。 「お前を、ここへ残したやつだよ」 その言葉に、村の音が一瞬遠のいた。雨だれだけが、やけに鮮やかに響く。ミナトは息をのみ、手帳を握りしめた。次に開くべきページは、村の外でもなく、昔の世界でもない。自分の失われた名前の、その先にあるものだった。
村人として生き直す
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