翌朝、村は雨上がりの匂いに包まれていた。昨夜の一降りで土はほどよく締まり、掘り返した溝には澄んだ水が細く残っている。だがミナトの胸の中は、むしろ乾いたままだった。広場の隅で倒れた旅の男は、医者代わりの老婆に運ばれ、今は納屋で休んでいる。封書に押された印は木箱と同じで、手帳の筆跡とも一致していた。けれど、それ以上の答えは誰も持っていない。 村長は集まった村人たちを見回し、低い声で言った。 「今は畑だ。だが、この話を放っておくわけにもいかん」 ミナトはうなずいた。疑いを抱えたままでも、日常は止まらない。乾きかけた苗に水をやり、崩れた畝を直し、隣村へ持っていく分の野菜を選ぶ。手を動かしているあいだだけ、考えは少し静かになる。だが、旅の男が言った言葉は何度も頭に戻ってきた。お前を、ここへ残したやつだよ。 昼前、納屋から呼び出しがかかった。男は顔色こそ青いが、目ははっきりしていた。ミナトが近づくと、彼は枕元に置かれた木箱の欠片を指した。雨で湿った封書の中から、さらに薄い板が現れたのだという。 「これを見ろ」 そこには、村の地図があった。だが、今の村ではない。ひとまわり大きく、川の流れも違う。広場の位置に丸が打たれ、その横に小さく記されている。 戻る場所はひとつではない ミナトは息を止めた。戻る、という言葉が、前の世界を指すのか、この世界のどこかを指すのか、判然としない。ただ、地図の端にはもうひとつ、見覚えのある略符があった。前世で使っていた会社の印と、ほとんど同じでありながら、どこか決定的に違うもの。まるで誰かが、元の世界とこちらの世界の境目をわざと曖昧にしたようだった。 その日の夕方、隣村との話し合いがまとまった。水を分け合う順番、干し野菜の交換、雨季が長引いたときの共同の備蓄。どれも地味で、英雄譚にはならない。だが、村人たちは自分の言葉で決め、自分の手で確かめた。ミナトが提案した溝の形は、実際に効果を見せている。もし彼がいなければ、少し先の未来はもっと荒れていたかもしれない。 夜、広場に小さな灯りがともった。誰かが干し肉を焼き、子どもたちは雨上がりのぬかるみを避けながら走り回る。ミナトはその輪の端に立ち、ふと自分が選ばれてここにいるのではなく、選び続けてここにいるのだと気づいた。 納屋の男は、最後にこう告げた。 「お前を残したやつは、たぶん帰り方も知っている。ただし、帰るべきかどうかまでは教えない」 その言葉は、逃げ道にも見えたし、試練にも見えた。 ミナトは空を見上げた。雲の切れ間に星がひとつ、鈍く光っている。前の世界へ戻る扉があるのかもしれない。だが、今の自分にとって大切なのは、扉の向こうより、足元のこの土だった。明日の麦を守ること、誰かの暮らしを少し楽にすること、その積み重ねが自分の名になる。 彼はゆっくり息を吐き、村の灯りへ歩き出した。
村人として生き直す
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