翌朝、村は薄い霧に包まれていた。雨は止んだのに、湿った土の匂いがまだ空気の底に沈んでいる。ミナトは広場の片隅で、昨夜受け取った地図をもう一度広げた。戻る場所はひとつではない。その言葉は、眠る前よりも重く胸にのしかかっていた。 旅の男はまだ納屋で横になっている。だが熱は下がり、今朝には自分の名を名乗った。リクと呼ばれるその男は、地図の端を見て顔色を変えた。 「それは、外へ出た者しか知らない印だ。ここから先は、村同士の話じゃない」 村長が低くうなる。 「つまり、あの木箱も手帳も、お前を導くためのものか」 導く。そう言われても、ミナトにはぴんと来なかった。ただ、手帳に記された水路の図も、木箱の中身も、今振り返れば妙に用意がよすぎる。偶然の形をしているだけで、誰かの手で並べられた道筋のようだった。 その日の昼前、隣村から再び人が来た。今度は使いの者ではなく、年配の女だった。腰の曲がった身体に似合わぬ鋭い目をしている。彼女は地図を見るなり、短く息を呑んだ。 「やはりここにあったか。何年も探していた」 村人たちがざわめく中、女はミナトを見て言った。 「お前は、ここへ偶然落ちてきたんじゃない。境目を渡る役目を持っていた人間だよ」 ミナトは言葉を失った。事故の記憶が、遠い痛みとして脈打つ。あの瞬間、自分は何かに押し出されたのではないか。目覚めた先がこの村だったのも、ただの行き先ではなかったのかもしれない。 だが、女はそれ以上を語らず、代わりに提案した。 「明日の朝、北の古い道へ来なさい。そこで分かる。帰る道も、残る道も」 夜、村では小さな宴が開かれた。新しく掘った溝のおかげで畑は救われ、隣村との水の取り決めも整った。干した果実が回され、薄い酒が盃に注がれる。誰かが笑い、誰かが明日の段取りを話す。いつもと同じようで、どこかだけ違う夜だった。 ミナトはその輪の端で、ふと自分の手を見た。前の世界で慣れ親しんでいたはずの手は、もう別人のものみたいに土で荒れている。それでも、この手で直した戸があり、この手で救えた畝がある。その事実だけは、どんな謎よりも確かだった。 翌朝、北の古い道は森へ伸びていた。湿った葉の影が重なり、奥には石でできた門のような遺構が半ば埋もれている。女がそこに立ち、静かに言った。 「門はひとりしか通せない。だが、通った者は二度と同じ場所へ戻れない」 ミナトの胸が強く鳴る。帰れば、答えはきっと見つかる。前の世界の断片も、この村へ来た理由も。けれど振り返れば、村の灯りは遠く、そこには名を呼んでくれる人たちがいる。守るべき日常がある。 彼はしばらく黙っていた。やがて、地図をそっと折りたたみ、女へ差し出す。 「帰るのは、やめます」 女は目を細めた。 「後悔しないか」 ミナトは首を振った。 「たぶん、どこへ行っても答えは全部そろわない。でも、ここでは今日を直せる」 その瞬間、森の奥で石門が低く鳴った。風ではない。誰かが向こう側で扉を開けた音のようだった。ミナトが身構えるより早く、門の影から幼い声がした。 「お兄ちゃん、早く」 見知らぬはずの声なのに、なぜか胸が締めつけられる。ミナトは息を呑み、村へ続く道と石門を交互に見た。彼を呼んだのは、失った過去なのか、それともまだ名もない未来なのか。答えを持たぬまま、彼は一歩だけ前へ出た。
村人として生き直す
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