エラベノベル堂

村人として生き直す

全年齢

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8章 / 全10

その声は、風に紛れていたはずなのに、耳の奥では妙にはっきりしていた。ミナトは石門の影へ目を向けた。そこにいたのは、村で見たことのない、小さな子どもだった。土で汚れた足、古びた外套、そして、なぜか懐かしさだけを呼び起こす瞳。だが次の瞬間、輪郭が揺れた。霧が立ち、子どもの姿は門の向こうへ溶けるように消える。 「見えたか」 隣に立つ女が、低く言った。ミナトはうなずけなかった。あれが幻だったのか、仕掛けだったのか、それとも本当に向こう側から来た呼び声だったのか、判然としない。ただ、胸の奥だけが妙に熱い。 「門は開いたままだ。通るなら今だよ」 ミナトは村のほうを振り返った。朝の光を受けた屋根が、静かに並んでいる。そこには、自分をただの村人として受け入れ、少しずつ居場所を与えてくれた人たちがいる。広場で笑う子どもも、畑で鍬を振るう男たちも、納屋の隙間風を直してくれと笑った女も、もう顔が浮かぶ。けれど同時に、門の向こうからは、失くしたはずの記憶が、鈍い痛みを伴って呼んでいた。 「……戻るんじゃない。確かめに行くだけだ」 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。ミナトは門へ足を踏み入れた。石の輪をくぐった瞬間、足元の土が消え、代わりに白い光が視界を満たす。耳鳴りのような音の中で、手帳と木箱の印が脈打つ。世界が裏返る感覚に、思わず目を閉じた。 次に目を開けたとき、そこは見知らぬ森の中だった。だが、足元にはリオ村へ続く古道と同じ石が敷かれている。すぐ傍らには、あの子どもが立っていた。今度は輪郭が崩れない。 「遅いよ」 子どもはそう言って、まるで当然のように笑った。 「お前が来るまで、村はずっと待ってた」 ミナトは息を呑む。子どもの手には、古びた手帳と同じ表紙の束があった。開かれたページには、見慣れた筆跡で、たった一行だけ記されている。 ここから先は、作る側に回れ 言葉の意味を飲み込む前に、遠くで鐘の音がした。村からではない。もっと深い森の奥、いくつもの村をまたぐように、低く響く音だった。子どもは音の方へ顎をしゃくる。 「お前が直してきたのは、溝や戸じゃない。こっちの世界のほころびだ」 ミナトは呆然とした。思い返せば、どの修繕も偶然ではなかったのかもしれない。木枠も、水路も、荷車も、境目に触れるたびに少しずつ、何かが正しい形へ戻っていた。村で拾った知恵は、この世界そのものをつなぐためのものだった。 だが、驚きはそれだけでは終わらない。森の木々の間から、見覚えのある人影が現れた。村長だった。さらに納屋の女、旅の男リク、隣村の年配の女までいる。皆、息を切らしながらも、どこか決意を宿した顔をしている。 「一人で行かせるわけがないだろう」 村長は苦笑した。 「お前はもう、ただの村人じゃない。村の手だ。だから、村ごと来た」 ミナトは言葉を失った。選んだはずの道は、ひとりで切り開くものではなかった。誰かの暮らしを支えたいと願った結果、支える側もまた、自分を支えに来ていたのだ。 子どもは満足げにうなずき、手帳をミナトへ渡した。 「次は、こっちを直す」 ミナトは深く息を吸い、手帳を胸に抱いた。前の世界はもう遠い。だが、失ったもののすべてが消えたわけではない。事故の先で始まったこの人生は、静かに、しかし確かに、思いもよらない形へ育っていた。 彼は村の者たちを見渡し、そして門のさらに奥へ目を向けた。そこには、まだ見ぬ土地と、壊れかけた道が続いている。 「行こう」 その一言で、みなの足が動いた。名もない村人だったはずの自分が、いまでは誰かと明日を作る側にいる。予想もしなかった結末は、まだ終わっていない。むしろ、ここからが本当の始まりだった。

8章 / 全10

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