写真館の奥にある扉は、昼の光を受けてもなお、ひどく深い影をたたえていた。千紗は白い月の鍵を掌に乗せたまま、しばらくそこから動けなかった。見覚えがある気がするだけでは足りない。知っていると言い切るには、胸の奥にまだ霧がかかっている。それでも鍵は、触れているだけで昔の空気を呼び戻すようだった。 律は何も言わず、引き出しを閉めた。手伝いの続きを促すでもなく、答えを急かすでもない。その沈黙が、かえって千紗の背中を押した。 「この先、見てもいいの」 自分でも驚くほどか細い声が出た。律は少しだけ目を細めた。 「君が望むなら」 望む。千紗はその言葉を反芻した。ここへ来る前の自分なら、そんなものはとっくに置き去りにしたと思っていた。けれど本当は違う。望むことをやめるのが癖になっていただけだ。届かないものを数えるより、諦めるほうが楽だったから。 鍵を差し込むと、錆びた音がして扉が開いた。中は小さな書庫のようで、段ボール箱と古い台帳が壁際に積まれている。窓のない部屋に、過去の気配だけが静かに沈んでいた。千紗は一歩進み、いちばん手前の箱を開けた。中には、写真の束と手紙が混ざっている。その端に、見覚えのある丸い文字があった。 母の字だった。 千紗は息を止めた。あの日、背を向けられたように感じた記憶が、急に違う形を取りはじめる。封を切ると、便箋はたった数枚しかなかった。そこに書かれていたのは、謝罪でも説明でもなく、ひたすらに柔らかい言葉だった。ここを離れる前に、預けておきたいものがある。いつかあなたが戻ってきたとき、自分で選べるように。 選べるように。千紗はその一文を何度も目でなぞった。忘れろと言われたわけではない。覚えていろとも言われていない。ただ、どちらでもいいと、母は残していったのだ。ずっと自分を縛っていたのは、他でもない自分だったのかもしれない。 箱の底から、もう一枚写真が出てきた。幼い千紗と母、その少し後ろに立つ律が写っている。今よりずっと幼い彼は、まるでこの場を守るように小さく立っていた。千紗は顔を上げた。 「律、これ」 渡された写真を見た律は、ほんの一瞬だけ息を詰めた。だが驚きより先に来たのは、諦めにも似た静けさだった。 「やっぱり、見つかったか」 「知ってたの」 「全部じゃない。でも、君がここへ来ることは、どこかで予感してた」 その言葉に、千紗はなぜか腹を立てるより先に笑いそうになった。こんなふうに差し出される未来があるなんて、思っていなかった。けれど同時に、胸の奥がひどく痛んだ。写真の中の律は、今の彼より少し幼く、そしてどこか置いていかれることに慣れた顔をしている。 「ここ、ただの片づけじゃないのね」 「うん」 律は短く答えた。 「返すために集めていた。でも、本当はひとつだけ残したかったものがある」 千紗は扉の奥の闇を見た。そこにはまだ、開けていない箱がひとつある。胸が騒ぐ。帰る場所だと思っていたものが、誰かに返すべき記憶と重なっている。そのことが少し怖くて、けれどどうしようもなく嬉しかった。 窓のない部屋に、店じまいの準備を告げる鐘の音が遠くから響いた。千紗は写真を胸に抱え、もう一度だけ扉の先を見た。ここから先にあるのは、きっと懐かしさだけではない。思いもよらない真実が、静かに息を潜めている。 それでも彼女は、今度は目を逸らさなかった。
灯台守の小さな選択
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