咲の一言のあと、倉庫の奥へ向かった足音はもう聞こえなかった。けれど、気配だけが薄く残っているようで、正人は無意識に息を浅くした。 「今の、聞こえましたか」 「ええ。たぶん、奥の資料室です」 咲は迷いなく言い、クリップボードを脇に抱え直した。 「今日は古い帳簿を出す予定でした。誰かが触ったのなら、そこかもしれません」 資料室は倉庫の端にある、細長い一室だった。窓は小さく、午後の光が斜めに差し込んで、埃の粒をゆっくり照らしている。棚には町内会の古い書類が並び、背表紙の色は時代ごとに少しずつ違っていた。 正人は白手袋を受け取り、慎重に帳簿を開いた。紙は乾いているのに、指先にはしっとりした重みがある。 「これ、何年分あるんですか」 「全部は数えたことがありません。残すものと、移すものを分けている途中なので」 咲は淡々と答えたが、その目は帳面の行間を追っていた。 何冊かめくったところで、正人の視線が一か所で止まった。町内会の収支や回覧の記録に混じって、小さな箱の扱いが記されていたのだ。 「……あった」 「何ですか」 「回覧箱、って書いてあります」 咲が身を寄せる。正人はページを指で押さえた。 「箱の移動記録です。手紙だけじゃない。町の行事に関する連絡票も入っていたみたいだ」 その一文を読んだ瞬間、正人の中で、今までの違和感が別の形に組み替わった。失くした手紙を追う依頼だと思っていたが、これはもっと広いものかもしれない。誰か一人の胸の内に閉じた秘密ではなく、この町で回され、渡され、積み重なってきた記憶の箱。 「回覧箱……」 咲が小さく復唱した。 「そんな呼び方をしていたんですね。私は、ただの保管箱だと」 「持ち主がそう呼んでいたのか、それとも町の中でそうなったのか……」 正人は帳簿を閉じかけ、もう一度開いた。日付の脇に、短い朱の印が残っている。失せ物ではなく、受け渡しの痕跡だ。 「依頼、少し見え方が変わりました」 「変わりましたか」 「ええ。最初は、誰かが隠したものを探す話だと思っていた。でも、これなら……」 言い切る前に、正人は口をつぐんだ。まだ結論を急ぐ段階ではない。だが、あの老婦人が曖昧に言葉を濁した理由は、少しだけわかる気がした。 咲は帳簿を元の位置に戻しながら、静かに言った。 「町の記録って、残っているようで、すぐに姿を変えますから」 「ええ。だからこそ、箱に入れて守っていたのかもしれません」 正人は机の上の古い帳簿を見下ろした。金属箱は、ただ手紙を隠すためのものではなかった。その事実だけが、午後の薄い光の中で、じわりと輪郭を持ち始めていた。
灯台守の小さな選択
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