エラベノベル堂

灯台守の小さな選択

全年齢

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4章 / 全10

翌朝の写真館は、昨夜よりも少しだけ冷えていた。千紗は白い月の鍵をポケットに入れたまま、奥の書庫で箱をひとつずつ開けていった。母の字が記された便箋は、どれも短く、けれど逃げ道を塞がないやさしさに満ちていた。読み進めるほど、胸の奥の固い結び目が少しずつほどけていく。母は千紗を置いていったのではない。ただ、戻るかどうかを決める時間を残してくれたのだ。 律は離れた棚の前で、古い帳面を繰っていた。必要以上に近づかない。その距離が、今の千紗にはありがたかった。助けてほしいと言えば手を貸してくれるのに、踏み込みすぎない。だからこそ、彼の沈黙にはいつも言葉より重いものがあった。 「この写真、全部返すつもりだったの」 千紗がそう言うと、律はうなずいた。 「持ち主が見つかるものはね」 「見つからなかったら」 「そのときは、ここで待つ」 待つ、という言葉が不思議だった。立ち止まることではなく、誰かが帰ってくる余白を残すこと。千紗は写真の束をそっと揃えながら、自分がずっと急かされていたのは時間ではなく、自分自身だったのだと気づいた。もっと頑張らなければ。もっと早く答えを出さなければ。そうやって追い立てていたのは、他の誰でもない。 昼前、一本の電話が鳴った。外から聞こえるはずのない音に、千紗は手を止めた。律が受話器を取り、短く返事をする。その横顔が、わずかに強張る。電話を切ると、彼はしばらく黙ってから言った。 「持ち主が来る」 「誰」 「君の母さん」 千紗は息を呑んだ。心臓が一度だけ大きく跳ね、それから妙に静かになった。会いたいのか、怖いのか、自分でもわからない。ただ、会わないままにしていた年月だけが、急に重みを持ってのしかかってくる。 午後、店の前に現れた女性は、記憶の中の母より少し年を重ねていた。けれど目元の柔らかさは変わっていない。千紗は扉の内側から、その人がためらう気配を見ていた。逃げ出したくなるほど懐かしいのに、近づけば傷つく気もする。そう思った瞬間、母が静かに頭を下げた。 「待たせて、ごめんね」 その一言で、千紗の中の何かが崩れた。許すとか許さないとか、そんな順番ではない。ただ、ずっと聞きたかった声が、ようやく届いた。それだけで十分だった。 母は写真の束を抱え、千紗の手に一枚の封筒を渡した。中に入っていたのは、新しい住所が書かれた紙ではなかった。写真館の名義変更に必要な書類と、たった一文のメモだけだった。ここはあなたが決めていい。 千紗は書類を見つめた。返されるべきものは、記憶だけではなかったのだ。場所も、役割も、これから先の形も、自分で選べるのだと母は告げている。 律が奥から現れ、二人の間に静かな空気を運んだ。彼は何も説明しない。ただ、いつものように少しだけ困った顔で笑った。 「だから言っただろう。君が見つけるんだ」 千紗は思わず吹き出しそうになった。ひどく腹立たしいのに、救われた気がした。写真館の窓から差し込む光が、床の上で白くほどけている。外では誰かが自転車を押して通り過ぎ、商店街の鐘が昼を告げた。 千紗は封筒を胸に抱えたまま、扉の外へ一歩出た。戻るか、残るか。答えはまだ決めきれない。それでも、足元の影はもう前を向いている。 そして彼女は、帰ってきた母と、待っていた律のあいだで、初めて自分の名前をまっすぐ呼ばれた気がした。

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