夕方の広場は、商店街の灯りが点き始める少し手前で、人の声だけがふわりと集まっていた。正人は古書店から持ってきた紙袋を脇に抱え、待ち合わせの約束が胸に重なるのを感じていた。 「朝倉さん」 振り向くと、あの老婦人がベンチの横に立っていた。買い物袋は今日はなく、代わりに薄いカーディガンの裾を指先で整えている。 「お待たせしました」 「いえ。来てくれて、ありがとう」 そう言う声は穏やかだったが、どこか決心のあとがある。 正人は単刀直入に切り出した。 「箱は、失くしたんじゃないんですね」 老婦人は目を伏せ、それから小さく笑った。 「ええ。見つけてほしかったの。自分で持っている限り、開ける勇気が出なかったから」 「勇気、ですか」 「中の手紙は、昔の約束の続きなの。ずっと置き去りにしてきたものを、もう一度結び直すための鍵……そう思っているんです」 正人は、午後に見た帳簿の朱印を思い出した。回覧箱と呼ばれていた小さな金属箱。個人の思い出であると同時に、町の記録でもある品。 「その相手の方は」 問いかけると、老婦人はかすかに首を横に振った。 「まだ、名前は言えません。けれど明日になれば、わかるはずです」 「明日?」 「町内のイベントがあるでしょう。あの日なら、箱がどうしてそこに戻ってきたのか、きっと見えると思うの」 正人は言葉を失いかけたが、すぐにうなずいた。老婦人の表情は、探し物をしている人のそれではない。失ったものを追う人でもなく、ようやく覚悟を決めた人の顔だった。 「わかりました。なら、明日まで待ちます」 「ごめんなさいね。最初から、こんな回り道をさせて」 「いえ。回り道に見えて、ちゃんと意味がありそうです」 正人がそう返すと、老婦人は少しだけ肩の力を抜いた。 広場の向こうで、明日の準備に使う看板を運ぶ音がした。人の流れが増えるたび、今はまだ見えない輪郭が少しずつ形を持っていくようだった。 「朝倉さん」 「はい」 「明日、あの箱を見たら、きっと驚くと思います」 老婦人のその言い方に、正人は胸の奥で小さく身構えた。驚きの理由はまだわからない。ただ、手紙の行き先が、思っていたよりずっと遠くで待っている気がした。 「じゃあ、明日に備えておきます」 そう言って正人が紙袋を持ち直したとき、広場の時計が低く鳴った。夕暮れはすぐそこまで来ている。だが、物語がほんとうに動くのは、きっとその先だ。
灯台守の小さな選択
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