エラベノベル堂

灯台守の小さな選択

全年齢

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5章 / 全10

夕方の写真館は、いつもより深く沈んで見えた。千紗の手の中には、母が置いていった名義変更の書類と、律が黙って差し出した白い月の鍵があった。戻るか残るか、そのどちらかを選べと言われたわけではない。けれど、選ばないまま時だけが進むことは、もう許されない気がした。 書庫の奥で、最後に残った箱を開ける。埃の匂いの底から現れたのは、写真でも手紙でもなく、一冊の古い帳面だった。表紙には、見慣れた丸い字で、月の返却記録とだけある。千紗は息を止めた。めくった一頁目にあったのは、幼い自分の名前だった。続くページには、返された写真の一覧、預かった鍵、そして会いに来るはずだった人たちの名前が、何年もかけて書き足されている。 これは店の記録ではない。誰かを待つための帳面だ。そう気づいた瞬間、千紗の背筋を冷たいものが走った。最終頁に残された一文が、静かに胸を撃つ。 千紗へ。この場所は、あなたが帰るために残した。 差出人のないはずのその筆跡は、確かに母のものだった。だが文末に添えられた印は、母のものではない。律の家に代々伝わるものだと、以前ちらりと聞いた記憶がよみがえる。千紗はゆっくり顔を上げた。 「律、これ……」 呼ばれた律は、奥の棚から目を離さないまま答えた。 「見つけたんだね」 その声は落ち着いていた。けれど落ち着きすぎていて、逆にすべてを知っている人の響きがあった。千紗は帳面を握りしめる。 「最初から知ってたの」 律はしばらく黙り、それからようやくこちらを見た。 「君がこの店に来ることも、母さんが戻ることも。たぶん、ここまでは」 「たぶん、って何」 「それ以上は、君が選ぶ未来だから」 選ぶ未来。その言葉が、ひどく遠く感じた。千紗は書類の束と帳面を見比べる。写真館を継げば、ここに残ることになる。だが、それは単に店を守ることではない。律がずっと待っていたものを引き受けることでもあるのだと、胸の奥が先に理解してしまった。 そのとき、母が扉の外から静かに言った。 「千紗。あなたが小さい頃、よくここで月を探してたの。律くんが、なくしたものは空に返るんじゃなくて、手の届く場所に戻るって教えてくれてね」 千紗は振り返った。母の目はやさしかった。だが、そのやさしさの裏に、ずっと隠されていた嘘の気配も見えた。律は幼い頃からこの店を知っていた。母も、ここに戻る日を知っていた。千紗だけが、何も知らないまま招かれていた。 裏切られた、と思うより先に、なぜか納得してしまう自分がいた。始まりは偶然ではなく、受け継がれた約束だったのだ。ならば、今ここで何を選んでも、それは誰かに決められた終わりにはならない。 千紗は帳面を閉じ、鍵をポケットに入れた。 「私、残る」 その一言に、律の表情が初めて崩れた。驚きでも安堵でもない、長い時間をやっと終えた人の顔だった。 「本当に」 「ええ。ただし、店を守るだけじゃない。ここに来た人が、置いていったものを自分で受け取りに来られる場所にする」 母が目を伏せ、そっと笑った。律は何も言わなかったが、静かに深く息を吐いた。その瞬間、千紗はようやく気づく。律が本当に待っていたのは、店でも記録でもない。自分がこの場所に帰ると決める、その一言だったのだ。 外では夜の気配が街を包みはじめていた。けれど店の中は、古い灯りに照らされて妙に明るい。千紗は白い月の鍵を掌で転がし、扉の向こうを見た。返されるはずだったものは、写真でも記憶でもなく、ずっと前から差し出されていた居場所だった。 そして彼女は、その居場所に、ようやく自分の足で立っていた。

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