夜更けの写真館は、灯りを落としてもなお、どこか息をしているみたいだった。千紗は帳面の最後の頁を閉じ、白い月の鍵を掌に残したまま、じっと扉の奥を見つめた。残ると口にした瞬間から、何かが終わるのではなく、むしろ始まってしまった気がしていた。 翌朝、店の前に一台の車が止まった。降りてきたのは、見知らぬ中年の男だった。律は顔色ひとつ変えずに迎えたが、その指先だけがわずかに固い。男は名を名乗ると、封筒を差し出した。封筒の表には、月の返却記録の印と同じ形の記号が押されている。 「これを、あなたに渡すよう言われていました」 千紗は思わず律を見た。彼は視線を逸らしたまま、受け取るよう小さくうなずく。その様子に、胸の奥が冷たくなる。封筒の中には、写真館の古い登記簿の写しと、何枚もの預かり証が入っていた。そこに記された名前のひとつひとつが、昨日まで彼女が箱から見つけていた人たちとつながっている。そして最後に残された一行だけが、千紗の呼吸を止めた。 月を返す役目は、律ではない。千紗でもない。返す先を決めるのは、記録を受け継いだ者ではなく、最初に失くした者だ。 「どういうこと」 声は震えた。律はようやく千紗を見たが、その目にはすでに答えの疲れが宿っていた。 「この店は、ただ写真を返す場所じゃない。失くしたままにされたものの、持ち主を探す場所なんだ。俺は守ってきただけだよ」 「じゃあ、私に残れって言ったのは」 「君が、最初の扉を開けたから」 千紗は封筒を握りつぶしそうになった。母も、律も、そしてこの場所も、ずっと前から同じ線の上にいたのだ。自分だけが、偶然拾われたふりをして、遅れてその輪に入ったつもりでいた。 そのとき、奥の書庫から鈍い音がした。誰もいないはずの部屋の扉が、内側から少しだけ開いている。千紗は反射的に走った。暗がりの中、床に落ちていたのは一冊の古い日記帳だった。表紙には母の字で、たった一文。 最後に返すのは、あなた自身。 ページをめくると、幼い頃の千紗が泣きながら写真を持っている絵があった。けれどそこに書かれた場所は、この店ではない。海の見える高台の住所だった。知らないはずの景色が、喉の奥を締めつける。律が背後で息を呑んだ。 「そこは、もう使っていないはずだ」 「知ってるの」 「母さんが、最後に向かった場所だ」 千紗は顔を上げた。母が渡したのは、名義変更の書類ではなかったのかもしれない。店を継がせるためではなく、何かを返し終えた先で会うための道しるべだったのだ。 車の男が、外から短く呼んだ。 「時間です。今日でこの店は引き払われます」 千紗の手から血の気が引いた。追い出される、という単純な言葉では足りなかった。もし今ここを離れれば、二度と戻れない気がした。だが残れば、母の残した最後の場所へは行けない。 律が一歩、千紗の前に立った。 「選んで」 それはいつもの、押しつけない声だった。けれど今日は、静かな刃のように鋭かった。 千紗は鍵を握りしめ、深く息を吸う。残ることはできる。だが、ここで守るだけでは、たぶん何も本当に終わらない。返すべきものを返しに行かなければ、この店も、自分も、ずっと途中のままだ。 彼女は書類の束を律に押し返した。 「店は任せる。私は、行く」 「一人で」 「たぶん、違う」 千紗は初めて笑った。律も、ほんのわずかに目を見開く。すぐに彼は封筒を閉じ、鍵を取ると、何も言わずにコートを手にした。まるで最初から、その答えを知っていたみたいに。 外へ出ると、朝の光が商店街の瓦屋根を白く縁取っていた。店を振り返れば、古い窓にふたりの影が並んでいる。失くしたものを探す旅は、思いがけず、最初から一人ではなかったのだ。 千紗は月の鍵をポケットにしまい、海の匂いがする方角へ足を向けた。終わりだと思っていた場所は、まだ何かを返し終えていない。予想外だったのは、その先に待っていたのが別れではなく、誰かと並んで進む朝だったことだった。
灯台守の小さな選択
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