エラベノベル堂

灯台守の小さな選択

全年齢

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7章 / 全10

車は商店街を抜け、まだ薄い朝靄の残る道を北へ走った。海へ向かうというより、町の記憶の底へ降りていくようだった。千紗は助手席で、窓の外を流れる風景を見ていた。古い看板、閉じたままの倉庫、朝市の準備をする人の背中。どれも見慣れたはずなのに、今はすべてが少しずつ違って見える。自分が本当は何を失くしていたのか、その輪郭が近づくたびに、胸の奥が静かに痛んだ。 律は運転席で黙っていた。黙っているくせに、沈黙が不思議と重くない。必要なことだけを残して、余計なものを削ぎ落とした空気が車内を満たしていた。千紗はポケットの中の月の鍵を握りしめる。あの店にいた時間は、もう戻れない。だが戻れないからこそ、今ここで向かう先に意味があるのだと、ようやく思えた。 海辺の高台に着いたとき、風は塩の匂いを運んできた。崖の縁に立つ小さな白い建物は、使われていないはずなのに、手入れだけはされていた。扉の横には古いポストがあり、そこに貼られた紙には、月の返却記録と同じ印が押されている。千紗は息を呑んだ。 「ここが、最後の場所?」 「たぶんね」 律はそう言って、ポストの中から封筒を取り出した。 「母さんが、最後に残したものだと思う」 封筒の中には、一枚の写真が入っていた。海を背に、まだ幼い千紗と母、そして若い頃の律が並んでいる。三人とも笑っていた。けれど千紗の目は、写真の端に写るもうひとりの人物で止まった。ぼやけているが、はっきりとわかる。父だった。 忘れていた顔ではない。忘れたことにしていた顔だった。 千紗は写真を裏返した。そこには、母の字で短くこう書かれていた。 返せなかったのは、写真ではなく、あの人が遺した約束。 喉が詰まる。父は昔、何も言わずにいなくなったのだと思っていた。けれど違ったのかもしれない。消えたのではなく、どこかへ返しに行ったのだ。何を。誰に。なぜ。 律が、崖の向こうを見たまま言った。 「君の父さんは、ここで最後にあるものを預けた。ずっと前から、戻る時を待ってたんだ」 「知ってたの」 「全部じゃない。でも、君がこの写真を見たら、たぶん来ると思ってた」 千紗は苦く笑った。やっぱり、と思う一方で、悔しさより先に安堵が来る。誰かに決められた道ではなくても、誰かが自分を待っていた。その事実だけで、足元の地面が少しだけ確かになった。 建物の中は、小さな資料室になっていた。机の上には封の切られていない箱がひとつ。その蓋に、千紗の名前がある。震える手で開けると、中には録音機と便箋が入っていた。再生ボタンを押すと、雑音の向こうから、かすれた男の声が流れた。 千紗へ。お前が大人になったら、これを渡してくれ。俺は戻れなかった。戻らなかったんじゃない。戻る場所を間違えた。あの店は、お前のために残す。だが本当に返したかったのは、失くしたままにした時間だ。 息が止まる。声は古く、弱く、それでも確かに父のものだった。千紗は録音機を握りしめた。怒りがないわけではない。会いたかったのに、会えなかった年月が消えるわけでもない。けれど、その不在さえ、無意味ではなかったと知らされる。返されるべきだったのは、写真でも鍵でもなく、父が残していった未完の言葉だった。 背後で、律が静かに立っていた。 「これで終わりにする?」 千紗は首を振った。終わりではない。むしろ、ここから先だ。 「終わらせない。私が預かる」 その言葉は、意外なほど自然に口をついた。自分を置いていった人のためではない。自分がこれから生きるために、もう一度受け取るのだ。 風が扉を揺らし、海鳴りが遠くで低くうねった。千紗は便箋を胸に当て、窓の外を見た。朝はとうに過ぎていたが、雲の切れ間から差し込む光は、まだ新しい始まりの色をしている。 「帰ろうか」 律が言った。千紗はうなずいた。 車に戻る途中、彼女はふと立ち止まり、崖の下に広がる海を見た。失くしたものは、誰かに奪われたわけではない。手放されたまま、待たされていただけだった。そう思った瞬間、胸の痛みが少しだけ形を変えた。 千紗はポケットの鍵を握り直した。写真館には、まだやることが残っている。返す写真も、迎える客も、開けていない扉もある。だが今度は、ひとりでその重さを抱えない。 予想外だったのは、答えを見つけたあとに始まるものが、静かな別れではなく、ようやく揃ったふたりの帰り道だったことだった。

7章 / 全10

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