写真館へ戻る車の中で、千紗は父の録音を何度も再生しかけては止めた。耳に残るのは、かすれた声そのものより、言葉の隙間に混じった長い沈黙だった。会えなかった年月を一息で埋めることなど、できるはずがない。それでも、胸の奥に張りついていた冷たさは少しずつ形を変えていた。 商店街に着くころには、空はうすい群青に沈みはじめていた。写真館の窓には灯りがともり、古い木枠の向こうで、待っていた時間が静かに息をしている。扉を開けると、母がひとりで帳面を閉じていた。目が合った瞬間、彼女は何も言わずに深く頭を下げた。その仕草だけで、千紗の中に残っていた最後の棘がゆっくり抜けていく。 「ごめん、千紗」 その一言は、許しを求めるためではなく、ようやく渡せた重みのように聞こえた。千紗は首を振った。許すという言葉が追いつかないほど、たくさんの気持ちがまだ胸の中でぶつかり合っている。それでも、責めることだけはもう必要ない気がした。 律は奥の棚から古いアルバムを運び出し、何も見ていなかったふうを装っていた。けれど、その横顔がわずかに緩んでいるのを千紗は見逃さなかった。彼もまた、この店に残された約束のひとつなのだ。預かる者であり、待つ者であり、言葉にならないまま支えてきた人。 千紗は父の便箋を机に置いた。そこには、写真館のことだけでなく、最後に返したかったものの名前が書かれていた。失くしたままの時間。置き去りにした言葉。戻れなかった日々。どれも形はないが、確かにここにある。 「これ、どうするの」 母が小さく尋ねた。千紗はしばらく考え、やがて答えた。 「返すよ。だけど、持ち主が取りに来るまで、ここで預かる」 その言葉に、律が初めてはっきり笑った。驚くほど静かな笑いだった。千紗は不思議と泣きたい気持ちになった。自分で決めたはずなのに、誰かに受け止められると、こんなにも心細いものなのかと知る。 その夜、三人で店じまいの準備をした。棚の埃を払い、封筒を並べ、まだ名前のない写真を箱へ戻す。作業は単純で、だからこそ確かだった。積み重ねるたび、千紗は気づいていく。失くしたものを探すのではなく、失くしたままの場所を作り直していたのだと。 深夜、母は先に帰り、店内には千紗と律だけが残った。月の鍵が机の上で鈍く光っている。千紗はそれを手に取り、もう一度、奥の書庫へ向かった。開けていない箱のひとつを開くと、中には白い封筒が入っていた。表には千紗の名前。その下に、小さく律の名前も並んでいる。 「これ、知ってた?」 振り返ると、律は珍しく困った顔をした。 「半分だけ」 「半分って何」 「君がここに残るなら、最後に渡すようにって」 封筒の中身は、一枚の古い写真だった。そこには、幼い千紗と若い母、そして少年の頃の律が写っている。三人の後ろに立つ、もうひとりの影。ぼやけた輪郭の中に、父の面影がある。だが千紗の目を引いたのは、その足元だった。そこに、小さく写っているのは白い月のキーホルダーでも鍵でもなく、海辺の高台で見たあの印と同じ、扉の紋。 「どういうこと」 律は写真を受け取り、しばらく黙ってから言った。 「この店は、ひとつの終点じゃない。返し終えたものを、次へ渡す場所なんだ」 「次へ」 「君が始めるんだよ」 その言葉が落ちた瞬間、千紗はようやく理解した。店を継ぐ、という言い方は正確ではなかった。これは誰かの跡をなぞることではない。自分の手で、失くした人たちの帰り道を作ることなのだ。 千紗は写真を胸に抱えた。外では風が窓を揺らし、遠くの電車が夜の底を走っていく。母の謝罪も、父の声も、律の沈黙も、全部がひとつの場所へ集まっていく。予想していた結末は、何もかもが明らかになることだった。けれど実際に待っていたのは、終わりではなく、ここから先を誰かと分け合う朝だった。 千紗は鍵を差し込んだままの扉を見て、静かに息を吐いた。 「ねえ、律」 「うん」 「明日から、本当に忙しくなるよ」 「知ってる」 「逃げないでね」 「君こそ」 ふたりは少しだけ笑った。笑いながら、千紗は思う。返されたのは記憶だけではない。待つ場所も、戻る理由も、これからを選ぶ自分自身も、ようやく手の中に戻ってきたのだと。
灯台守の小さな選択
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