エラベノベル堂

断片を結ぶ町

全年齢

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6章 / 全10

真琴が広げた古い帳面の最後のページに、直人は小さな走り書きを見つけた。あの夜、最初に走ったのは写真館の店主でも、向かいの家の少年でもない。呼びに行く途中で転んだのは、少年の姉だった。誰かを責めるための記録ではなく、ただ順番を間違えた記憶が、町の中で何度も形を変えていただけだった。 直人は紙面を見つめたまま、しばらく動けなかった。おかえり、帰り道、まだでしょ、言えなかったことは、あとで届く。断片はひとつの真実へ集まったのに、その真実は予想していたものよりずっとやさしかった。誰かの過失ではない。誰かの悪意でもない。胸の奥でほどけずにいたのは、たった一度の沈黙が、長い年月のあいだに膨らんでしまっただけだった。 「これなら、責める話にはならない」 真琴が低く言った。 祖母は手元の手紙をそっと撫でた。あの夜、姉は弟を探して暗い道を走り、転んだ拍子に声を上げられなかった。そこへ写真館の店主が通りかかり、少年を背負って走った。だが途中で見かけた人々の記憶はばらばらで、誰が先に動いたのか、誰が遅れたのかだけが町の中で歪んで残った。歪みは、誰も悪くないのに、悪いほうへ育っていく。 直人は深く息を吐いた。ならば必要なのは、告発ではなく、呼び戻すことだ。事実をそのまま並べても、人は防御してしまう。けれど、名前を呼び、手を伸ばし、遅れて届いた気持ちだと伝えれば、壊さずに渡せるかもしれない。彼は校正の癖で言葉を削り、余計な熱を落とし、しかし大事な温度だけは残した。 夕方、商店街の掲示板に新しい文が張られた。火災の夜、助けようと走った人がいたこと。呼びに行った姉がいたこと。誰も責められるべきではなく、言えなかった思いが長く残っていただけだと、静かな調子で記されていた。長い説明ではない。けれど、読む者が自分の記憶を預けられるだけの余白があった。 最初に立ち止まったのは、写真館を知らない若い男だった。次に、八百屋の店主が眼鏡を外し、向かいの婦人が唇を震わせた。少女は祖母の手を握りしめ、真琴は掲示板の端を見守った。しばらくして、ぽつりぽつりと昔話がこぼれはじめる。走る足音。濡れた路地。助けを呼ぶ声。転んだ拍子に消えた呼吸。みんな、同じ夜を別の角度から見ていただけだった。 その輪の中で、祖母はようやく、姉の名を口にした。誰も責めなかった。ただ、遅すぎた沈黙に、少しだけ息を吹きかけた。すると、固まっていた空気が不思議なほどやわらかくほどけた。直人はその様子を見て、真実は重いだけではないのだと思った。遅れて届いた声でも、人の間に橋を架けられる。 夜、最初の紙片が貼られていた電柱の前に、また直人は立った。そこには何もない。けれど風が吹くたび、町のどこかで紙がめくれるような音がする。おかえり、という声はもう一枚の紙に書かれる必要がない。誰かが誰かを見つけ、名前を呼び、帰ってきたと確かめるたび、その言葉は町の中で静かに生き続ける。直人は薄暗い空を見上げ、あの日から続いていた違和感が、今は別の形のあたたかさへ変わっているのを感じていた。

6章 / 全10

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