エラベノベル堂

衝動の向こうで

全年齢

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4章 / 全10

翌日、拓海は約束の時刻より少し早く雪奈の住むアパートの前に着いた。古い建物だったが、手入れは行き届いていて、階段の隅に置かれた鉢植えが小さく葉を揺らしていた。ベルを押す指先が、なぜか仕事の会議よりも緊張している。扉が開くと、雪奈は普段と変わらない静かな顔で拓海を迎えた。 部屋は驚くほど整っていた。余計なものがないぶん、窓から入る光が床にまっすぐ落ちている。雪奈は湯気の立つ茶を二つ並べ、拓海を座らせた。 「見せたいものって、何なんですか」 「隠していたものです」 拓海は眉をひそめた。雪奈は少しだけ迷うように視線を落とし、それから机の引き出しを開けた。中には、細かく書き込まれたメモと、折り目のついた用紙が何枚も重なっていた。職場の記録、体調の変化、眠れない夜のこと、笑ってやり過ごした日々。そこには、拓海が思っていた以上に多くの揺れが詰まっていた。 「私、何も感じていないように見えるでしょう」 「……少し、思ってました」 「違います。感じすぎるから、整理しないと壊れるんです」 拓海は言葉を失った。雪奈の静けさは、無傷だからではなかった。何度も崩れかけたものを、その都度丁寧に積み直した跡だった。自分だけが荒れているのだと思っていたが、誰かの落ち着きは、痛みのない証明ではない。むしろ、痛みと付き合うための技術なのだ。 雪奈はメモの束をそっと戻し、視線を上げた。 「昨日、拓海さんが飛び出したとき、私は止めたいより先に、追いかけたかったです」 「なんで」 「たぶん、似ているからです」 似ている。その言葉は、拓海にとって予想外だった。自分と雪奈は、正反対に見えていた。だが本当は、感情に呑まれそうな自分と、感情を切り分けて保つ雪奈は、どちらも同じ危うさの中に立っていた。方法が違うだけで、抱えているものは似ている。 しばらく沈黙が落ちた。窓の外で、乾いた風がカーテンを揺らす。やがて拓海が口を開いた。 「俺、あのまま全部ぶつけてたら、壊してたかもしれない」 「壊れたくなかったんですか」 「本当は、壊したくなかった」 雪奈は小さく頷いた。 「なら、それで十分です」 拓海は苦く笑った。十分と言われると、肩の力が抜ける。激しくなりすぎる感情を、消す必要はない。けれど、そのまま誰かに投げつけるだけでは、何も守れない。守りたいものがあるなら、熱の置き場所を覚えなければならないのだ。 帰り際、拓海は玄関で立ち止まった。振り返ると、雪奈はいつものように静かにそこにいた。 「また来てもいいですか」 「ええ。ただし、逃げる前に来てください」 「それ、ずるいな」 「ずるくないと、あなたは来ないでしょう」 拓海は思わず笑った。反発し合っていたはずなのに、今はそのやり取りが、不思議なくらい心地いい。外へ出ると、夕暮れの空は深く沈み、街の明かりがひとつずつ灯り始めていた。拓海は胸の奥に残る熱を抱えたまま、しかし以前ほど怖くはなかった。怒りはまだある。焦りも消えてはいない。だがそれらは、誰かを傷つける刃だけではないと知ったからだ。 背後で扉が閉まる音がした。振り返ると、雪奈の部屋の窓に柔らかな灯りがともっている。拓海はその光を見上げ、ゆっくり息を吐いた。思いがけないことに、彼はひとりではなかった。むしろ、ひとりで抱え込むことをやめた瞬間から、本当の意味で始まるものがあるのだと、ようやく理解し始めていた。

4章 / 全10

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