エラベノベル堂

衝動の向こうで

全年齢

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4章 / 全10

夕方の廊下は、昼の熱気がまだ壁に残っていて、紙の匂いがいつもより濃かった。修が資料室から戻ろうとしたところで、向こう側の給湯室の前に数人がたむろしているのが見えた。声は抑えられているのに、嫌な色だけははっきりと廊下へ漏れてくる。 「藤堂さんの件、聞いた?」 「締切前に資料を飛ばしたって」 「しかも、あの新人まで絡んでるらしいよ」 修は足を止めた。指先が一瞬だけ冷える。資料を飛ばした。誰が、どこまで見て、どこから話を作っているのかもわからない。 「違う」 思わず言いかけたが、喉の奥で止めた。真正面から否定しても、たぶんもっと面白がられるだけだ。 そのとき、書類棚の影から柚希が現れた。何事もなかったように腕にファイルを抱え、足を止めずに通り過ぎる。けれど修の横を抜ける瞬間だけ、唇がほとんど動かない程度に言った。 「今は、見ないでください」 「……何を」 「噂のほうです」 彼女は振り返らない。だが、声は妙に平坦で、それ以上聞くなと告げていた。 修はこらえきれず、廊下の端に目を向けた。先ほどまでひそひそ話をしていた一人が、ちらりとこちらを見ている。すぐに目が逸れた。まるで、最初から修の反応を待っていたみたいに。 「柚希、あれ」 「大丈夫です」 「大丈夫って顔じゃないだろ」 ようやく彼女は立ち止まり、ファイルを胸に抱えたまま修を見た。その表情は崩れていない。けれど、目の奥にほんの少しだけ張りつめたものがある。 「仕事を続けます。藤堂さんも、いつも通りで」 「無理だろ、こんなの」 「無理でもです」 言い切ったあと、柚希は視線をわずかに下げた。 「それに、私のほうにも少し向いています。今は余計なことをしないでください」 その言葉が、どういう意味で危ないのか修にはすぐわかった。柚希が噂の火元だと思われている。だからこそ、彼女は表情を変えずにいるのだ。 修は悔しさに奥歯を噛んだ。助けたいのに、軽々しく動けば、もっと面倒を増やす。周囲の目は冷たく、どこか待ち構えている。 「……わかった」 そう答えると、柚希はほんの一瞬だけ目を細めた。それは笑みと呼ぶには薄く、それでも確かな安堵だった。 「ありがとうございます」 「礼を言うのはこっちだろ」 「いいえ。藤堂さんが、まだ立ち止まっていないので」 その一言で、修の胸の中に沈んでいた重さが少しだけ形を変えた。完全には消えない。だが、彼女が自分を信じていることだけは伝わってくる。 修は廊下の向こう、ひそひそ声の溜まりへもう一度目をやった。そこにはもう興味本位の視線しかない。柚希もまた、感情を押し殺したまま書類へ戻っていく。 孤立している。そう思った。けれど不思議と、ひとりではなかった。 「柚希」 「はい」 「何があっても、今日はこの仕事を終わらせる」 彼女は少しだけ間を置いてから頷いた。 「ええ。そうしましょう」 廊下のざわめきの中で、その返事だけが妙に静かだった。

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