閉館の案内音が消えたあとも、編集部には紙とインクの匂いが残っていた。蛍光灯だけが白く、机の角を冷たく照らしている。修は帰り支度を終えたまま、ひとつだけ点いている席を見つめた。 「まだ残ってたのか」 声をかけると、柚希は古いファイルから顔を上げた。机の上には、黄ばんだ背表紙の束が何冊も積まれている。 「藤堂さんこそ、まだいたんですね」 「片づけに来ただけだ。……それ、何のファイルだ」 柚希の指先が、紙の端をそっと押さえる。 「社内保管の記録です。少し気になって」 「気になるって、こんな時間に?」 「昼間だと、見つけたくないものまで見えてしまうので」 言い方は淡々としていたが、珍しく迷いが混じっていた。修は机の横に回り込み、背表紙に目を落とす。年度ごとの台帳、来客記録、廃棄済みの一覧。その中に、ひときわ古い束があった。 「これは……」 「創業者の時代のものです」 柚希はそこだけ、声を落とした。 修がページをめくると、走り書きの欄に不自然な空白がいくつもある。ところどころ、薄く残った文字の欠片だけが読めた。失踪、持ち出し禁止、機密原稿、所在不明。 「こんなの、初めて見る」 「ええ。私もです」 柚希は視線を伏せたまま、別の紙を引き寄せた。そこには、誰かの署名の横に、赤い印が何度も押されている。だが、肝心な文言のほうは削られたように曖昧だった。 修は喉の奥が乾くのを感じた。 「失踪した創業者って、本当にいなくなっただけじゃないのか」 「たぶん、そういうことです」 「たぶん?」 柚希は珍しく言葉を選んだ。いつもの澄んだ声が、少しだけ揺れている。 「この記録、誰かが途中から意図的に飛ばしています。原稿の扱いも、創業者の移動記録も、繋がりかけるたびに途切れている」 修はファイルを閉じかけて、また開いた。 「つまり、隠してるってことか」 「はい。でも、私ひとりでは追いきれません」 その一言に、修は顔を上げた。柚希が初めて見せた、はっきりした迷いだった。いつも整いすぎていた彼女の指先が、わずかに紙を乱す。 「藤堂さん」 「なんだ」 「……手伝ってください」 頼むというより、差し出すみたいな声だった。修はしばらく黙っていたが、やがて古い台帳の束をそっと引き寄せた。 「事情はわからない。けど、ここまで見つけたなら放っておけないな」 柚希は目を伏せたまま、小さく息をついた。 「ありがとうございます」 「礼はまだ早い。俺、こういうのは苦手なんだぞ」 「知っています」 「知ってるのかよ」 初めて、柚希の口元がほんの少しだけ和らいだ。けれど次の瞬間には、また真剣な顔に戻る。 ファイルの奥から、折り込まれた紙片が一枚滑り落ちた。修が拾い上げると、そこには短い文だけが薄く残っていた。 見つけるな 部屋の空気が、すっと冷える。 修は紙片を握りしめ、柚希と顔を見合わせた。閉館後の静けさの中で、ふたりの影だけが長く伸びていた。
衝動の向こうで
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