翌朝、拓海は職場へ向かう足を駅前で止めた。胸の奥に、昨夜から消えないざらつきがある。飲み込んだ言葉の残りかすではない。もっと露骨で、もっと自分勝手な熱だった。あの場で爆発しかけた自分を思い返すたび、恥ずかしさと同じくらい、置き去りにしたものへの焦りが込み上げる。 雪奈に見せられたメモの束が、頭の中で何度も開閉した。崩れないようにするための記録。感じすぎるからこそ、日々を細かく分けて抱え直すやり方。拓海はそれを、弱さを隠すための工夫だと思っていた。だが違う。あれは、壊れないための、そして誰かを壊さないための、静かな決意だった。 昼休み、拓海は現場の隅でスマホを握りしめ、雪奈に短い連絡を送った。昨夜は、助かった。ありがとう。それだけ打つのに、指が少し震えた。すぐに返事は来ない。だが、返事を待つ時間さえ、以前ほど苦ではなかった。自分の中にある熱を、急いで証明する必要はないのだと知ったからだ。 午後になって、再び職場の空気がざわついた。細かな手違いが重なり、責任の所在を誰かに押しつけようとする声が上がる。拓海は以前なら黙って苛立ちを溜め込んでいただろう。けれど、その日は違った。深く息を吸い、できるだけ平たい声で言った。 「今は責め合っても、片づきません。やることを分けましょう」 自分でも驚くほど、言葉は落ち着いていた。周囲は一瞬だけ黙ったが、やがて作業は動き出した。拓海はその流れの中で、怒りをただ飲み込むのでも、投げつけるのでもない第三の形を知った気がした。熱は残る。それでも、扱い方を覚えれば、誰かの足元を焼かずに済む。 仕事を終えた帰り道、駅の階段を上がると、改札の向こうに雪奈の姿があった。待ち合わせをしたわけではない。なのに、彼女は迷いなくこちらを見つけた。拓海が近づくと、雪奈は小さく息を吐いて言った。 「返事、読みました」 「遅かったですか」 「いえ。きちんと届きました」 その一言だけで、拓海は肩の力が抜けた。彼女は何も大げさにしない。ただ、届いたことを届いたまま返す。その誠実さが、今はありがたかった。 駅前を並んで歩きながら、拓海はふと口を開いた。 「昨日まで、俺たち、ぶつかるしかないと思ってました」 「私もです」 「でも、違ったんですね」 「ええ。ぶつかったから、見えたものもあるけれど」 雪奈はそこで言葉を切り、少しだけ空を見上げた。夕暮れが深くなり、街の灯りがひとつずつ増えていく。 「これからは、ぶつかる前に止まれます」 拓海はその言葉に、少しだけ笑った。止まれるようになるまでに、きっと何度も失敗する。それでも、ひとりで抱えて壊れるよりはずっといい。そう思った瞬間、雪奈が珍しく小さく首を傾げた。 「拓海さん」 「なんですか」 「明日、私は少し遠くへ行きます」 拓海は足を止めた。予想していなかった言葉だった。だが雪奈は、驚かせるために言ったのではないとわかる顔をしていた。 「しばらく、家族のことで手伝うことがあって」 「……そうですか」 「でも、逃げるわけではありません」 そのひとことが、妙に胸に残った。逃げない。だから離れる。そんな選び方があるのだと、拓海は初めて知った。自分の熱に引きずられるだけではなく、守るために距離を取ることもある。 「戻ってきますか」 「戻ります。きっと」 雪奈はそう言って、初めてはっきりと微笑んだ。拓海は、その笑みに答えるように深く息を吸った。別れのようで、終わりではない。むしろ、ようやく始まる距離だった。 見送る改札の向こうで、雪奈は一度だけ振り返った。拓海も手を上げる。言葉は要らなかった。激しさを抱えたままでも、人はやり直せる。壊す前に止まり、離れることで守れるものもある。その事実が、夜の駅の光の中で、静かに拓海の中へ沈んでいった。
衝動の向こうで
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