雪奈が遠くへ行ってから、拓海の毎日は妙に静かだった。連絡は途切れていない。短い文面が数日に一度届き、拓海も必要なことだけを返す。けれど、画面越しのやり取りは、触れたはずの温度を薄くした。以前なら、その薄さに苛立っていただろう。今は、待つことそのものが答えだと知っている。 職場では相変わらず細かな行き違いが起きたが、拓海は前よりも早く息を整えられるようになった。怒りが消えたわけではない。むしろ、ふいに噴き上がる熱は以前と同じだ。ただ、その熱を持ったまま誰かを傷つけるのではなく、いったん机に置く感覚を覚えた。雪奈の言葉が、何度も頭の中で反芻される。ぶつかる前に止まれるように。 そんなある日、拓海は図書館の返却口で、見覚えのある封筒を手にした。雪奈からだった。中には、簡潔な文章と一枚の紙が入っていた。家族の用事は無事に片づいたこと、近いうちに戻ること、そして駅前の古い喫茶店で会えないかという誘い。最後に、短くこう書かれていた。前より少しだけ、正直に話したいです。 胸の奥が、ゆっくりと熱を帯びた。待つことに慣れたと思っていたのに、いざ戻ると知ると、静けさの下で抑えていたものが揺れる。拓海は封筒を握りしめ、喫茶店へ向かった。 窓際の席に雪奈はいた。前より少し疲れた顔をしているのに、目はまっすぐだった。拓海が向かいに座ると、彼女はすぐに言った。 「待たせました」 「待ってました」 拓海がそう返すと、雪奈はほんの少しだけ目を見開いた。たったそれだけで、会えなかった時間の硬さが少しほどける。 「家族のこと、どうでした」 「大変でした。でも、逃げずに済んだと思います」 「ならよかった」 「拓海さんは?」 「怒る回数は減りました。でも、完全には無理です」 「それでいいです」 雪奈はそう言って、カップを包む手に視線を落とした。拓海は、その横顔を見ながら気づく。彼女もまた、離れている間に何かを削り、何かを選び直してきたのだ。整いすぎた人ではない。崩れそうな自分を、崩れたままにしなかった人だ。 「前に、壊したくなかったって言いましたよね」 雪奈が静かに言った。 「はい」 「私もです。だから、近づき方を間違えたくなかった」 拓海は息を止めた。遠ざかった理由は、拒絶ではなかった。守るための距離だったのだと、ようやくはっきりわかった。自分たちは何度もぶつかり、そのたびに相手をわかった気になっていた。けれど、分かったふりをやめた先にしか、本当の始まりはない。 そのとき、店の奥で皿が落ちる音がした。誰かの声が上がり、空気が一瞬ざわつく。拓海の中でも反射的に熱が跳ねた。だが立ち上がる前に、雪奈が小さく首を振る。 「大丈夫です。見に行きましょう」 二人で席を立つ。騒ぎはすぐに収まり、誰も大ごとにしなかった。拓海はそこで、初めて自分の衝動が、状況を壊すだけのものではないと感じた。誰かの痛みに駆け寄る力にもなりうる。乱暴さの奥に、守りたい気持ちが隠れている限り、それはただの刃ではない。 店を出ると、夜風がやわらかかった。駅前の明かりは前と同じなのに、見える景色だけが違う。 「戻ってきて、どうでした」 拓海が尋ねると、雪奈は少し考えてから答えた。 「帰る場所があるって、思えました」 その言葉は、拓海の胸に静かに落ちた。自分にとっても、ここがそうなりつつあるのかもしれない。激しく揺れた感情は、消えるのではなく、置き場所を得ていく。 雪奈が改札の前で立ち止まり、拓海を見上げた。 「次は、もっと早く会いましょう」 「そうですね」 「今度は、逃げる前じゃなくて」 拓海は笑った。あのときより、ずっと自然に。 「逃げません。ちゃんと、会いに行きます」 改札の向こうへ雪奈が消えていく。拓海はその背中を見送りながら、胸の奥に残る熱を確かに感じていた。危うさは消えない。けれど、互いにそれを知った今なら、もう一度、静かな始まりに手を伸ばせる。夜の駅は変わらず明るかったが、その光はもう、ひとりを照らすためだけのものではなかった。
衝動の向こうで
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