駅前の明かりが、濡れた路面に長く伸びていた。拓海はその光の中で、雪奈の言葉をまだ飲み込めずにいた。明日、少し遠くへ行く。戻る。逃げるわけではない。その簡潔さが、かえって胸をざわつかせる。 「本当に行くんですか」 「ええ。家族のことで、少し」 雪奈はそう言って、いつもより少しだけ視線を外した。拓海は、引き止めたい衝動をそのまま握りつぶした。止めれば止めるほど、胸の奥で熱が膨らむ。だが以前のように、ただ言葉をぶつければ何かが変わるとは思えなかった。 二人は駅前の喫茶店に入った。閉店間際の店内は静かで、湯気の立つカップだけが小さく揺れている。雪奈は鞄から薄い封筒を取り出した。 「これ、預けておきます」 「何ですか」 「私が戻るまで、開けないでください」 拓海は封筒を受け取った。紙越しに、何かが封じられている感触がある。たかが紙一枚なのに、胸が妙に重くなった。 「そんなに大事なものなんですか」 「大事です。でも、今は渡しておきたいだけです」 その言い方は、いつもの静けさと少し違っていた。決めた人間の声だった。拓海はそれを見て、ようやく理解した。雪奈は逃げるために離れるのではない。自分の中の揺れを、そのまま誰かに預けないために距離を取るのだ。 外へ出ると、雨は上がっていた。駅前広場の片隅で、若い男が怒鳴り声を上げていた。スマートフォンを握る手が震え、目の奥がひどく赤い。誰かに裏切られたのだろうと、拓海は直感した。人だかりができる。誰も近づかない。 拓海の中で、かすかな衝動が跳ねた。止めなければ、取り返しがつかなくなる。そう思う前に足が動く。 「大丈夫か」 拓海が声をかけると、男はびくりと肩を震わせた。次の瞬間、握っていたスマートフォンが宙を滑り、石畳に落ちた。派手な音がして、画面に細いひびが走る。 男は顔を伏せたまま、震える息を吐いた。拓海は拾い上げた端末を差し出し、言葉を選んだ。 「壊したくなる気持ちは、わかる。でも、今ここで全部壊すと、もっと苦しくなる」 男は何も答えない。ただ、荒い呼吸だけが少しずつ整っていく。 雪奈が拓海の横に立ったのは、そのときだった。 「飲み物、買ってきます」 彼女はそう言って、無駄のない足取りでコンビニへ向かった。戻ってきた彼女は、温かい缶を一つ、男に差し出した。 「手を使うと落ち着くことがあります」 男は戸惑いながらそれを受け取った。拓海はその様子を見て、雪奈の静けさがただの冷たさではないと、改めて思い知らされた。 騒ぎはやがて収まり、男は小さく会釈して去っていった。拓海はその背中を見送りながら、自分の胸の奥に残る熱を感じていた。以前なら、怒りはただ爆ぜるだけだった。だが今は、飛び出す前に誰かへ届く形を探せる。 「さっきの、よかったです」 雪奈が言った。 「何がですか」 「止めようとしたことです」 「たまたまですよ」 「たまたまでも、止めたのは拓海さんです」 その言葉に、拓海は少しだけ笑った。認められたくてやったわけじゃない。それでも、見ていてくれたことが、妙にあたたかかった。 喫茶店へ戻ると、雪奈は拓海の前に座り直した。封筒はまだ閉じたままだ。 「明日、発ちます」 「わかってます」 「戻ったら、最初に会ってください」 拓海は封筒を見つめ、それから頷いた。 「開けてもいいのは、そのあとですか」 「ええ。そのあとです」 別れ際、改札の手前で雪奈は立ち止まった。人の流れの中で、彼女だけが静かにそこにいる。 「拓海さん」 「なんですか」 「怒ってもいいです。でも、投げつけないでください」 拓海は息を呑んだ。あまりに真っ直ぐで、逃げ場のない言葉だった。だが、不思議と苦しくはない。 「努力します」 「それで十分です」 雪奈がホームへ消える。拓海は封筒を胸ポケットにしまい、夜風を吸い込んだ。何かが終わるのではない。むしろ、危うさを知ったからこそ、初めて始められる関係がある。そう思えたとき、駅の向こうの空に細い月が浮かんでいた。
衝動の向こうで
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