雪奈が遠くへ行っているあいだ、拓海の毎日は妙に静かだった。連絡は途切れない。数日に一度、短い文面が届き、拓海も必要なことだけを返す。画面の向こうにあるはずの体温は薄い。それでも、以前のような焦りは少しだけ和らいでいた。待つことも、ひとつの形なのだと知り始めていたからだ。 そんなある夕方、職場の空気が急にざわついた。小さな手違いが重なり、誰かが誰かの責任を探し始める。拓海は胸の奥で熱が跳ねるのを感じた。言い返せば、きっと場はさらに荒れる。だが黙って飲み込めば、自分の中で何かが腐る。拓海は深く息を吸い、できるだけ平らな声で言った。 「今は責め合っても終わりません。やることを分けましょう」 驚いた顔がいくつも上がる。だが誰かが動き始めると、空気は少しずつ変わった。拓海は自分でも不思議だった。怒りが消えたわけではない。ただ、投げつける前に置く場所を覚えられた気がした。 仕事を終えて駅へ向かう途中、拓海のスマートフォンが震えた。雪奈からだった。戻る日が決まったこと、そして駅前の古い喫茶店で会えないかという短い誘いが書かれている。最後に、前より少しだけ正直に話したいです、とあった。 胸の奥が、ゆっくり熱を帯びる。拓海はそのまま喫茶店へ向かった。 窓際の席に雪奈はいた。少し疲れた顔をしているのに、目だけはまっすぐだった。拓海が向かいに座ると、彼女は小さく息を吐いた。 「待たせました」 「待ってました」 たったそれだけで、会えなかった時間の硬さが少しほどける。 「家族のこと、どうでした」 「大変でした。でも、逃げずに済んだと思います」 「ならよかった」 「拓海さんは?」 「怒る回数は減りました。でも、完全には無理です」 「それでいいです」 雪奈はカップを包む手に視線を落とした。拓海はそこで気づく。彼女もまた、離れているあいだに何かを削り、何かを選び直してきたのだ。整いすぎた人ではない。崩れそうな自分を、崩れたままにしなかった人なのだ。 「前に、壊したくなかったって言いましたよね」 雪奈が静かに言った。 「はい」 「私もです。だから、近づき方を間違えたくなかった」 拓海は息を止めた。遠ざかった理由は拒絶ではなかった。守るための距離だったのだと、ようやくわかった。自分たちは何度もぶつかり、そのたびに相手をわかった気になっていた。だが、分かったふりをやめた先にしか、本当の始まりはない。 そのとき、店の奥で皿が落ちる音がした。誰かの声が上がり、空気が一瞬ざわつく。拓海の中でも反射的に熱が跳ねた。立ち上がるより早く、雪奈が小さく首を振る。 「大丈夫です。見に行きましょう」 二人で席を立つ。騒ぎはすぐに収まり、大事にはならなかった。拓海はその場で、自分の衝動が状況を壊すだけのものではないと知った。誰かの痛みに駆け寄る力にもなりうる。乱暴さの奥に、守りたい気持ちが隠れている限り、それはただの刃ではない。 店を出ると、夜風がやわらかかった。駅前の明かりは前と同じなのに、見える景色だけが違う。 「戻ってきて、どうでした」 拓海が尋ねると、雪奈は少し考えてから答えた。 「帰る場所があるって、思えました」 その言葉は、拓海の胸に静かに落ちた。自分にとっても、ここがそうなりつつあるのかもしれない。激しく揺れた感情は、消えるのではなく、置き場所を得ていく。 雪奈が改札の前で立ち止まり、拓海を見上げた。 「次は、もっと早く会いましょう」 「そうですね」 「今度は、逃げる前じゃなくて」 拓海は笑った。あのときより、ずっと自然に。 「逃げません。ちゃんと、会いに行きます」 改札の向こうへ雪奈が消えていく。拓海はその背中を見送りながら、胸の奥に残る熱を確かに感じていた。危うさは消えない。けれど、互いにそれを知った今なら、もう一度、静かな始まりに手を伸ばせる。夜の駅は変わらず明るかったが、その光はもう、ひとりを照らすためだけのものではなかった。
衝動の向こうで
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