屋上の風はまだ冷たかった。ビルの縁に立つと、街の明かりが薄い雲ににじんで見える。修は手の中の写しを握りしめたまま、背中に走る気配を感じていた。柚希も兄も、わずかに身構えている。 「来たか」 兄が低く言った。 扉の向こうから現れた上司は、乱れひとつない顔で三人を見た。夜明け前の暗さに紛れても、その笑みだけは妙に白い。 「こんなところで何をしている。君たちが持っているものは、こちらで預かろう」 「預かる?」 修は声を絞り出した。 「隠す、の間違いじゃないんですか」 上司は小さく肩をすくめる。 「誤解だ。証拠を渡してくれれば、なかったことにできる。君も、柚希さんも、これ以上傷つかずに済む」 甘い言葉だった。だが、その奥にある圧が露骨すぎて、修は吐き気を覚えた。 「なかったことに、ですか」 柚希が静かに言う。 「失踪も、原稿も、社内で流した噂も?」 「君は賢い。余計なことは考えないほうがいい」 「脅しのつもりなら、遅いです」 上司の目が細くなる。 「強がるな。君ひとりで何ができる」 「ひとりじゃありません」 修は自分でも驚くほど、はっきり言った。沈黙を破った声が、屋上の風に乗って遠くへ散る。 「もう、隠す側には立ちません」 上司の表情がほんの一瞬だけ揺れた。修は見逃さなかった。今まで見せなかった焦りが、底から滲み出ている。 「立場をわきまえろ、藤堂。君は何も知らないまま、仕事を回していればよかったんだ」 「回せばよかった?」 修は笑うしかなかった。 「じゃあ、なんで資料室に鍵をかけたんです。なんで記録を飛ばしたんです。なんで、見つかったら困る書類ばかり先に消したんです」 上司は黙った。だが、その沈黙が答えだった。 柚希が写しを持ち上げる。 「ここに全部あります。隠蔽の指示、回収の流れ、あなたの名前も」 「やめろ」 「やめません」 「会社を壊す気か」 兄が鼻で笑った。 「もう壊れている。隠してきただけだ」 上司は口を開きかけ、閉じた。そのたびに言葉が裏返る。守ると言いながら切り捨てる。守秘だと言いながら口止めを認める。証拠はないと言いながら、証拠を渡せば終わると言う。 修は、その矛盾の連なりをひとつずつ聞きながら、胸の奥で何かが静かに決まっていくのを感じた。怖い。だが、もう戻れない。 「藤堂さん」 柚希がそっと呼ぶ。 「わかってる」 修は写しを開き、夜明け前の風に紙を鳴らした。上司の顔から、余裕が消えていく。屋上の端で、街はまだ何も知らない顔をしていた。
衝動の向こうで
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