翌朝、拓海はいつもより早く目を覚ました。窓の外はまだ薄い群青で、街は眠ったままだった。昨夜、雪奈と別れたあとに残った静けさが、胸の奥でかすかに疼いている。怒りは減った。けれど消えたわけではない。むしろ、形を変えた熱が、行き場を探しているようだった。 職場へ向かう電車の中で、拓海は何度もスマートフォンを見た。雪奈からの連絡はない。戻る日が近いはずなのに、その沈黙が妙に長く感じられる。以前なら、そんな間を不安で埋めようとしていた。だが今は、待つことの意味を少し知っている。何も起きていないのではなく、起きる前の呼吸があるのだと。 昼前、現場で小さなトラブルが起きた。配送の手違いで資材が足りず、責任の所在を巡って声が荒くなる。誰かが拓海に顔を向けた。 「前にも確認しただろ」 その一言で、胸の奥がひどく熱くなった。喉までせり上がる言葉は、鋭い刃の形をしていた。拓海は一歩踏み出しかけ、そこで止まった。 止まれたことに、自分でも驚く。雪奈の言葉が浮かんだ。ぶつかる前に止まれるように。拓海は深く息を吸い、できるだけ平たい声を選んだ。 「今は責めても仕方ないです。まず不足分を確認しましょう。足りないなら、別ルートを当たります」 場の空気が少し変わった。誰もが驚いたように拓海を見たが、やがて動き始める。熱はまだ胸にある。それでも、投げつける以外の使い道があると知っただけで、世界はほんの少しだけ広く見えた。 夕方、仕事を終えた拓海のスマートフォンが震えた。雪奈からだった。戻る日が決まったこと、そして駅前の古い喫茶店で会えないかという短い誘い。最後に、前より少しだけ正直に話したいです、とあった。 胸の奥で、抑えていたものが静かに揺れた。拓海は喫茶店へ向かった。 窓際の席に雪奈はいた。少し痩せたように見えるのに、目だけはまっすぐだ。拓海が向かいに座ると、彼女は湯気の立つカップを指先で包んだ。 「待たせました」 「待ってました」 その一言で、離れていた時間の硬さが少しほどける。 「家族のこと、どうでした」 「大変でした。でも、逃げずに済んだと思います」 「ならよかった」 「拓海さんは?」 「怒る回数は減りました。でも、完全には無理です」 「それでいいです」 雪奈はそう言って、視線を落とした。拓海はそこで気づく。彼女もまた、この数日で何かを削り、何かを選び直してきたのだ。整って見える人ではない。崩れかける自分を、崩れたままにしなかった人なのだ。 「前に、壊したくなかったって言いましたよね」 雪奈が静かに言った。 「はい」 「私もです。だから、近づき方を間違えたくなかった」 拓海は息を止めた。遠ざかった理由は拒絶ではなかった。守るための距離だったのだと、ようやくはっきりわかる。自分たちは何度もぶつかり、そのたびに相手をわかった気になっていた。だが、分かったふりをやめた先にしか、本当の始まりはない。 そのとき、店の奥で皿が落ちる音がした。誰かの声が上がり、空気が一瞬ざわつく。拓海の中でも反射的に熱が跳ねた。立ち上がるより早く、雪奈が小さく首を振る。 「大丈夫です。見に行きましょう」 二人で席を立つ。騒ぎはすぐに収まり、大事にはならなかった。拓海はそこで、自分の衝動が状況を壊すだけのものではないと知った。誰かの痛みに駆け寄る力にもなりうる。乱暴さの奥に、守りたい気持ちがある限り、それはただの刃ではない。 店を出ると、夜風がやわらかかった。駅前の明かりは前と同じなのに、見える景色だけが違う。 「戻ってきて、どうでした」 拓海が尋ねると、雪奈は少し考えてから答えた。 「帰る場所があるって、思えました」 その言葉は、拓海の胸に静かに落ちた。自分にとっても、ここがそうなりつつあるのかもしれない。激しく揺れた感情は、消えるのではなく、置き場所を得ていく。 改札の前で、雪奈は立ち止まった。 「次は、もっと早く会いましょう」 「そうですね」 「今度は、逃げる前じゃなくて」 拓海は笑った。あのときより、ずっと自然に。 「逃げません。ちゃんと、会いに行きます」 雪奈が改札を抜ける。拓海はその背中を見送りながら、胸の奥に残る熱を確かに感じていた。危うさは消えない。けれど、互いにそれを知った今なら、もう一度、静かな始まりに手を伸ばせる。夜の駅は変わらず明るかったが、その光はもう、ひとりを照らすためだけのものではなかった。
衝動の向こうで
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