食の催しまで、あと三日。店は朝から湯気と潮の匂いに満ちていた。真琴は帳場の前に立ち、難読の札を指で押さえながら、ひとつずつ口に出していた。昨日読めた字が今朝は急に顔を変える。魚のほうが気まぐれなのか、自分の覚え方が頼りないのか、判然としない。 「これはもう、読むというより付き合うだな」 佐久間が包丁を磨きながら言った。真琴が首をかしげると、店主は笑って、氷の上の魚を目で示した。 「名を知ると、見え方が変わる。漢字はその入口だ」 その日の昼、常連の辰夫が孫を連れてやって来た。孫は札を見上げ、即座に言い当てようとする。だが、似た字の二種をそろえて出していた真琴が、うっかり片方を逆向きに置いてしまい、店内に小さなざわめきが走った。 「こっちが先に出るはずじゃ」 「いや、こっちのほうが気が強そうだ」 「名前は似てても、顔つきは違うよ」 客たちは勝手な推理を始め、真琴は慌てて紙を入れ替えた。けれど魚たちは、氷の上で静かに身をくねらせ、まるで自分たちの噂話を楽しんでいるようだった。名を呼ばれるたび、少し胸を張るように見える。その様子が可笑しくて、店内の笑いは次第に熱を帯びた。 真琴はその場で思いついた。札の読みだけでなく、ひとこと添えればいいのだと。気難しそうな魚には、潮の早いところで育ったと書く。つややかな魚には、光を集めるのが得意だと添える。すると、常連たちの視線が変わった。漢字の壁は高いままだが、その向こうにいる魚の姿が、少しずつ見えてくる。 夕方になると、志乃も巻き込んで、店は小さな予習会のようになった。辰夫は札を見ては読みを外し、外すたびに悔しそうに笑う。孫は一度で当てようとして、わざとひねった答えを口にする。真琴はそのたびに板前の前でうなずき、正解でも不正解でも、魚の性格を添えて返した。 「こっちは名前が長いけど、気は短くないんです」 「そっちは見た目が派手でも、味は控えめで上品ですよ」 やがて佐久間が、帳場の黒板に新しい段を足した。品書きの脇に、魚の漢字と読み、その下に短い紹介を並べる。すると不思議なことに、注文の声が増えた。読めないから避けるのではなく、読めないからこそ試したくなる。難しい名が、かえって客の好奇心を煽っていた。 真琴はその変化に胸が温かくなるのを覚えた。覚えられない文字に追い立てられていたはずなのに、今ではそれが店の顔になっている。魚たちは皿の上で、ひとつひとつ違う表情を見せながら、まるで自分の名札を誇る役者のようだった。 閉店間際、佐久間が最後の札を裏返し、真琴に差し出した。 「明日の仕込みで、これを任せる」 「私にですか」 「ああ。もう読めるだろう」 真琴は札を受け取り、息を呑んだ。そこに書かれた字は、昨日まで何度も見てきたはずなのに、今夜はするりと意味を結んだ。ところが読みを口にするより早く、店の奥からかすかな笑い声がした気がした。氷の箱を振り向くと、最も気難しい顔をしていた一匹が、まるでこちらを試すように尾を揺らしている。 真琴は小さく頷いた。 「わかりました。あなたが看板ですね」 その瞬間、箱の中で魚たちが一斉に跳ねた。まるで、催し当日の主役がもう決まったと告げるかのように。
難読魚の寿司店
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