食の催しまで、あと二日。朝の海風が暖簾を揺らすころ、真琴は帳場で新しい札を書き直していた。昨日までの読みと紹介文では足りない気がして、魚の名の横に、ひとことだけ性格を添える。だが、いざ筆を取ると、どれも短く収めるのが惜しくなる。 「欲張ると、字より長くなるぞ」 佐久間が包丁の刃を拭きながら言った。 「でも、どの魚も一言じゃ言い足りません」 真琴が答えると、志乃が茶を運びながら笑った。 「それでいいのよ。人だって、ひとつの呼び名で全部は語れないでしょう」 その言葉に、真琴はふと手を止めた。難読の漢字は、ただ難しいだけではない。読めるようになったとき、その魚に会えた気がする。名前は扉なのだ。扉を開ければ、気むずかしそうに見えた一匹が、意外なほど素直で、香り高く、柔らかな甘みを隠している。 昼前、町の催しに出す最終確認のため、佐久間は箱を並べ直した。ところが似た字の札が一枚、別の箱に混ざっていた。真琴が慌てて取り出そうとすると、辰夫が目を細める。 「おいおい、そいつはまた紛らわしいやつだな」 「すみません、私が……」 「謝ることはない」 佐久間が手を振った。 「似ているからこそ、並べて見せれば面白い」 そこで店は急きょ、二種類の魚を食べ比べる趣向に変えた。ひとつはすっとした旨みが立つ握り、もうひとつは香りを生かした昆布締め。真琴は札の下に、味の違いを短く添え、客が迷わず選べるようにした。すると、今まで漢字を遠巻きに見ていた若い客まで身を乗り出す。 「こっちはどんな味ですか」 「名前は難しいが、舌にはやさしい」 佐久間の返しに笑いが起き、店内の空気が一段やわらいだ。 夕方になると、店の奥では小さな予行演習が始まった。真琴は札を指さし、辰夫はわざと外し、志乃はそれをさらりと訂正する。魚たちは氷の上で落ち着きなく身をくねらせながらも、呼ばれるたびに誇らしげだった。まるで、自分たちの名が人の口にのぼる瞬間を待っていたように。 「もう少し大きく書こうか」 真琴が言うと、佐久間は首を振った。 「字は大きくなくていい。覚えようとする気持ちのほうが大事だ」 その夜、閉店後の静かな厨房で、真琴は最後の一枚を手に取った。何度も読み間違え、何度も笑われた、いちばん厄介な字だ。けれど今は迷わない。指先でなぞり、声に出す。 「……これです」 佐久間は満足そうにうなずいた。 「ようやく店の者の顔になったな」 翌朝、町じゅうの人間が集まる催しの日。店は難読の魚を並べた特別な寿司膳で迎えた。客は札を見て首をひねり、真琴の説明を聞いて目を輝かせ、食べてはうなずいた。笑いながら名を覚え、覚えながらもう一貫頼む。やがて誰もが、難しい漢字を見れば口元を緩めるようになった。 最後に残った一皿を前に、辰夫が大きく息を吐く。 「結局、いちばん難しいのは、名前じゃなくて食べる前の遠慮だな」 その言葉に、店中がどっと笑った。 こうして町では、老舗寿司店の難読魚が名物になった。真琴はもう札を見ても怯えない。店主と並んで胸を張り、今日も元気よく案内する。 「こちら、名前は難しいですが、忘れられない味です」 暖簾の向こうで、海風がまたひとつ、にぎやかな笑いを運んできた。
難読魚の寿司店
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