エラベノベル堂

難読魚の寿司店

全年齢

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5章 / 全10

食の催しまで、あと一日。朝から店の中は、湯気と潮の香りと、妙に張りつめた空気で満ちていた。真琴は帳場に積んだ札を見つめ、何度も指先で文字をなぞる。似た字面の魚が二種、さらにもう一種、昨日までなら見分けるだけで精一杯だったが、今ではそれぞれの癖まで浮かぶようになっていた。 「今日は決めるぞ」 佐久間が言うと、志乃が手元の包みを整えた。 「看板は一皿じゃ足りないでしょう。町中が来るのよ」 辰夫も腕組みをしてうなずく。 「だが、全部を一番にしたら、結局どれが主役かわからん」 その一言で、店の空気が少し重くなった。 真琴は、氷の上に並んだ魚たちを見た。ひときわ気むずかしそうに尾を立てるもの、静かな顔で周囲を見渡すもの、見た目は派手でも意外と控えめなもの。どれも自分こそが前に出るべきだと言いたげで、互いに譲る気配がない。そこへ真琴が、札を並べ替えようとして手を止めた。 「あっ」 ひとつ、似た名前の札が入れ違っている。慌てて戻そうとした拍子に、隣の皿まで少し崩れた。 「待て待て、そいつはそっちじゃない」 佐久間がすぐに手を伸ばしたが、その混乱が、かえって新しい流れを呼んだ。 辰夫が魚を見比べて言う。 「似ているようで、口に入れれば違う。なら、並べて食わせりゃいい」 「比べるのは面白いけれど、ただ並べるだけでは味気ないわ」 志乃が箸置きをずらしながら応じた。 真琴は一度深呼吸をして、思いついたことを口にした。 「名前ごとに小さな物語を添えませんか。きれいに見える魚は透明な皿に、香りが立つ魚は温かい器に、気難しそうな魚は控えめに見せて、食べたときに驚かせるんです」 佐久間の目が細くなる。 「なるほど。魚の個性を、盛り付けで見せるか」 志乃もすぐに頷いた。 「それなら、名札も活きるわね」 辰夫は腕をほどき、苦笑した。 「こんがらがったのは、むしろ好機だったか」 そこから店は一気に回り始めた。真琴は札の下に短い紹介文を書き足し、佐久間は握りの大きさと並べ方を調整する。志乃は皿の色を選び、辰夫は客が迷わぬよう順番の導線を考えた。氷の上の魚たちは、まるで自分の出番を心得ている役者のように、盛り付けられるたびに表情を変える。凛としたものは白磁の上でいっそう端正に、香り高いものは湯気の残る椀のそばでやさしく、派手な身色のものは淡い葉の上で鮮やかに映えた。 真琴は、混同していた二種の魚を見比べて、ようやく違いを言葉にできた。 「こっちは前に出る味。こっちは後から広がる味なんですね」 「そうだ」 佐久間が笑う。 「名前を覚えるってのは、味の順番を知ることだ」 閉店間際、最後の一皿が仕上がった。真琴はその中央に、いちばん難しい漢字の魚を置く。周囲を囲むのは、性格の違う仲間たち。まるで主役を支える舞台のようでありながら、誰ひとり脇役ではない。 翌日の催しで、客たちはその特別な膳に目を見張った。難しい名前に笑い、紹介文にうなずき、食べては驚く。けれど最も驚いたのは、真琴自身だった。どれが看板かと問われたとき、彼女は一皿ではなく、並んだ魚たち全員を迷いなく指させたのだ。 「こちらの店の看板は、名前の難しさではありません」 真琴は胸を張って言った。 「違う味が、ひとつの景色になることです」 佐久間が満足そうに笑い、志乃が客に次の皿を勧める。辰夫はうまそうに頷き、魚たちはそれぞれの皿の上で、どこか誇らしげに見えた。催しの終わりには、あちこちで難読の名が飛び交い、笑い声が絶えなかった。店へ戻る道すがら、真琴はふと気づく。店の人気を決めたのは、一番目立つ魚ではない。混乱の中で互いの魅力を引き出し合った、あの個性のぶつかり合いそのものだった。 海風が吹き抜ける。暖簾が揺れる。真琴はもう札を見ても迷わない。むしろ、次にどんな名前が来ても楽しみだと思っている。難しい漢字は、今日からこの店のいちばん親しみやすい看板になった。

5章 / 全10

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