翌日の昼が近づくころ、暖簾の外には、もう店先をのぞき込む顔がいくつも並んでいた。珍しい魚がいると噂を聞きつけたのだろう。玲は店先に立ったまま、手書きの札を一枚ずつ吊るしていく。 「よし、これで見れば分かるはずだ」 そう言って掲げたのは、難読漢字だけをずらりと並べた即席のお品書きだった。ところが、字面は立派でも、読む前に心が折れる。 「……え、これ何て読むの」 「さあ、見た目は強そうなんだがな」 「強そうって言われても、注文できないんだけど」 店先に集まった客たちが、次々に首をひねる。玲も苦笑して、札を指で叩いた。 「俺も、これはさすがに難しいと思う」 「思う、じゃなくて覚えさせてくれよ」 そのとき、店の奥から魚たちがざわりと気配を立てた。 「ならば、我らが説明しよう」 最初に口を開いたのは、炙ると香りが立つ一匹だった。札の前で身をくねらせると、まるで舞台の上の役者みたいに胸を張る。 「わたしは火に近づくと、気位より先に香ばしさが届く。見た目は鋭いが、口当たりは意外とやわらかい」 「なるほど、匂いで選べってことか」 客のひとりが頷く。すると今度は、昆布の気配が似合う魚が静かに前へ出た。 「こちらは、急がれるのが苦手だ。すこし待たせたぶんだけ、旨みが深くなる。派手な声より、落ち着いた顔が似合う」 「静かなやつだな……」 「静かだが、薄いとは言っていないぞ」 続いて、軍艦が似合う魚が札の下でひらりと尾を振る。 「わたしは隠し切るより、少し見せたほうがいい。海苔の縁からのぞいた瞬間がいちばん楽しいからな」 「見た目で選ぶなら、こっちだな」 玲はうなずき、客たちの表情が変わっていくのを見た。読めない漢字の威圧感に押されていたさっきまでとは違う。いまは、それぞれの魚が自分の歩き方で前に出ている。 「じゃあ、迷うなら香りで決めるか」 「こっちは炙り向き」 「こっちは落ち着いた旨み」 「なら、これを軍艦で」 注文がようやく動き出す。玲は手際よく酢飯を取り、魚たちの言葉に合わせるように握り方を変えていった。ひとつ出すたび、客の目が少し丸くなる。 「名前より先に、食べる前の想像が来るんだな」 「そうそう、なんかもう旨そう」 「変な漢字ってだけで敬遠してたけど、見れば違うね」 魚たちはその声を聞いて、どこか得意げに胸を反らせた。玲はその様子に笑い、ふっと息を吐く。 「店ってのは、ただ珍しいものを並べるだけじゃないんだな」 「今さら気づいたのか」 「いや、ようやく分かった。ここは見世物じゃなくて、味を想像してもらう場所だ」 「劇場みたいなものだな」 その一言に、店先の空気がぱっと明るくなる。客たちは札を見比べ、魚たちはそれぞれの個性を声にして見せる。玲は握りながら、自然と頷いていた。読み方が分からなくても、香りと色と、ひと口前の期待で選べる。そんな小さな劇場が、いつの間にか出来上がっていた。 「次、これください」 「じゃあ俺は、さっきの静かなやつを」 「わたしは香ばしいのがいい」 声が重なるたび、波止場の店先は少しずつ、賑わいの形を変えていく。玲は札を見上げたまま、最後にひとつだけ笑った。 「よし。漢字は難しくていい。そのぶん、味で驚かせよう」
難読魚の寿司店
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