催しを明日に控えた夕刻、店の板場は妙に静かだった。静かなのは束の間で、真琴が札を並べ直した瞬間、またしても似た字面の魚が向かい合う形になり、佐久間が小さく息を吐いた。 「……やっぱり、最後まで油断できんな」 「すみません。私、見れば見るほど混乱してきて」 真琴は苦笑したが、その声はもう焦っていなかった。難しい漢字に怯える日々は終わり、今はむしろ、魚たちが何を見せたいのかを考える時間になっている。 ところが、その穏やかな空気を破るように、辰夫が店先から大きな声を上げた。 「おい、注文票が違うぞ。催し用の盛り付けと、普段の品が混ざっている」 店内が一斉にざわめいた。真琴が駆け寄ると、たしかに札と仕込み帳の順番が入れ替わっている。しかも、同じ読みを持つ別の魚まで紛れ込んでいた。ひとつはすっとした白身、もうひとつは色つやのよい身。字面が似ているせいで、箱の中でも帳場でも見分けがつきにくい。 「これじゃ看板どころか、明日の段取りが崩れる」 志乃の表情が少しだけ曇った。 真琴は二つの魚を見比べた。似ているのに、手触りも、艶も、気配も違う。ひとつは前に出るより、静かに旨みを重ねる。もうひとつは香りが先に立ち、食べたあとに印象が残る。なのに今まで、同じ棚に置いてひとまとめに考えていた。混同の原因は、札の字だけではない。扱う側の見方そのものだったのだ。 「……別々に見せましょう」 真琴が言った。 「別々に、ですか」 「はい。似ているから並べるんじゃなくて、違うから並べるんです」 佐久間が面白そうに眉を上げた。 「続けろ」 「白身のほうは、澄んだ器に載せて、ひと口目の端正さを見せる。もう一方は、少し温度のある皿で、香りが開く瞬間を見せるんです。紹介文も変えます。同じ漢字で呼べても、味の入口は違うって」 志乃がすぐに頷いた。 「それなら、催しの客にも伝わるわ。見た目で迷っても、食べれば分かるもの」 辰夫も腕を組み直した。 「なるほどな。難しい字に並んでいる魚ほど、違いを知ると面白い」 そこからは早かった。真琴は札の下に、短くも印象の違う説明を書き足した。佐久間は盛り付けを組み替え、重ねる順番まで変える。志乃は皿の色を選び直し、辰夫は来客の流れを想像して配置を整える。混乱の原因だった似た魚たちは、役割を分けられたことでかえって輝きを増した。片方は凛とした静けさで、もう片方は余韻のある華やかさで、どちらも自分の持ち場を得たのだ。 真琴は最後に、いちばん難しい漢字の札を手に取った。何度も読み違え、何度も笑われ、それでも覚えてきた字だ。今では、ただの記号ではない。その魚が持つ気質、料理にしたときの表情、客に渡す驚きまで含んでいる。 「これを、膳の中心に置きましょう」 佐久間が頷く。 「看板は目立つものじゃない。店の流れをまとめるものだ」 夜が更けるころ、板場には明日のための特別な寿司膳の見本が並んでいた。似た名前の魚は、比べられることで違いが際立ち、難読の魚は、ひと皿ごとに物語を持った。真琴はその景色を見て、はっとした。転がり込んだ混乱は、ただの手違いではなかったのだ。似ているからこそ間違え、間違えたからこそ、違いを言葉にできた。 翌朝の催しに向け、最後の札を整えながら、真琴はもう迷わない声で言った。 「明日は、名前の難しさじゃなくて、違いの面白さを見せましょう」 箱の中の魚たちが、静かに、しかし確かに身を揺らした。まるでそれが、自分たちの出番だと知っているように。
難読魚の寿司店
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