康平の笑顔だけが、やけに場違いに光っていた。派手な看板はカウンター脇で倒れかけ、足元に置かれた皿の影へ長い角を落としている。玲がそれを起こそうと手を伸ばした拍子に、札が一枚、ひらりと滑った。 「おっと」 「待て、そっちは俺だ」 「違う、わたしの札だ」 声が重なり、次の瞬間には別の札が別の皿に乗っていた。玲は目を瞬かせる。 「え、今どれを握った?」 「知らん。さっきまで自分のだった」 「誰が勝手に入れ替えた」 「看板が倒れた拍子だろ」 康平が、わざとらしく軽い調子で笑う。 「いやあ、これは面白いね。こういう混乱も、話題性になる」 その言葉に、カウンターの上の空気がぴんと張った。魚たちが一斉に身をよじる。 「またそれか」 「話題にするな」 「見世物にする気だろう」 玲は札を拾い上げたが、番号の書かれた皿と注文伝票がどうにも噛み合わない。ひとつ直せば、別のひとつが狂う。誰がどのネタなのか、たちまち分からなくなる。 「すみません、これ、どれでしたっけ」 「さっき言った通りだよ。こっちがあの細いやつで、あっちが香りの強いやつ」 常連客が笑いをこぼす。 「いや、もう分からない。でも、なんか当たる気はする」 「当てるな、食べろ」 魚のひとつが、ぷんと尾を振る。 「その前に、札を正せ」 「お前も動くな」 「動いているのはそっちだ」 玲は思わず吹き出しそうになりながら、皿の順を入れ替える。すると今度は、隣の伝票が別の客のものと混ざった。 「ちょっと待て、これは誰の注文だ」 「私のではないぞ」 「俺のでもない」 「じゃあ、さっきの炙りを先に」 「違う、俺は昆布締めだ」 「わたしは軍艦だ」 口々に主張が飛び交い、客席では爆笑が起きた。康平はその輪の中心で、まだ撮れ高でも探すみたいにあたりを見回している。 玲はその横顔を見て、ふと手を止めた。派手な看板、映える名物、読めない漢字を大きく見せる工夫。どれも悪いわけじゃない。けれど、今店内で起きている混乱は、その先にある大事なものを押し流してしまっている。 見せ方が先に立つと、肝心の味がどこかへ行く。 玲は倒れた看板を見下ろし、静かに息を吐いた。 「……そういうことか」 「何がだ」 「お前たち、目立つのが嫌なんじゃない。珍しいってだけで持ち上げられるのが嫌なんだ」 魚たちの動きが、ほんの少し止まる。 「今ごろ気づいたか」 「遅い」 「でも、分かったなら上出来だ」 玲は頷き、入れ替わった札をひとつずつ元の場所へ戻していく。康平の看板はまだ倒れたままだが、店内のざわめきは、さっきよりも少しだけ意味を持って聞こえた。 「珍しさで並べるんじゃない。ちゃんと味わってもらうために出す」 その言葉に、カウンターの向こうで、いちばん難しい札の魚が小さく尾を振った。康平の笑みが、ほんのわずかに固くなる。玲はその変化に気づきながらも、次の皿へ手を伸ばした。
難読魚の寿司店
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