食の催し当日、海辺の通りは朝から人であふれていた。真琴は暖簾の前に立ち、胸の鼓動を落ち着けるように息を吸う。店内では佐久間が最終の握りを整え、志乃が皿を拭き、辰夫が案内札を並べていた。前夜の混乱は、もう騒ぎではなく段取りに変わっている。けれど、最後の箱を開けた真琴は、思わず目を瞬いた。 いちばん中心に置くはずの魚が、見当たらない。 「まさか、また入れ替わったのか」 辰夫が眉をひそめる。 真琴は慌てて箱の底を探し、ようやく隅に潜む札を見つけた。だが、そこに書かれた字は、昨日まで何度読んでも覚えきれなかったものではない。似た名の魚と並ぶうち、ようやく意味が結びついた、あの看板の字だった。 「……ありました」 声が少し震えた。 佐久間が覗き込み、にやりと笑う。 「見つけたか。なら、もう迷うな」 開店と同時に客が流れ込んできた。黒板には難読の魚の名がずらりと並び、その下に真琴の書いた短い説明が添えられている。読み上げるたびに、客たちは首をひねり、次に笑う。似た字の魚が二種、対になる皿で供されると、食べ比べる楽しさに目を輝かせた。 「こっちは先に旨みが来るね」 「こっちは香りが後から追いかけてくる」 「名前は難しいのに、味はすっと入る」 あちこちで声が弾み、寿司屋の中はひとつの祭りのようになった。 真琴は案内の合間に、箱の魚たちを見つめた。昨日は個性が強すぎてまとまらないと思っていたのに、いま目の前にあるのは不思議な調和だった。凛とした白身は白磁の上で端正に映え、気むずかしそうだった魚は小さな葉を添えられて、思いがけないやわらかさを見せる。派手な色の魚は、控えめな一品の隣でいっそう鮮やかに見えた。どれも自分を主張しているのに、並ぶことで互いを引き立てている。 そこへ、昼の混雑の中で小さなハプニングが起きた。似た名前の札が一枚、別の皿に置かれていたのだ。客のひとりがそれを指して首をかしげる。 「これ、さっきのと同じですか」 一瞬、空気が止まった。だが真琴はすぐに答えた。 「似ていますが、役目が違うんです。こちらはひと口目で驚かせる魚、あちらは最後に余韻を残す魚です」 客は納得したように笑い、佐久間はその場で皿を入れ替える。混乱は、むしろ説明のきっかけになった。 真琴は気づく。名前を覚えることは、ただ漢字を読み解くことではない。魚の気配を知り、並べ方を考え、客の前でその違いを伝えることだ。だからこそ、似た字は似たままでは終わらない。比べることで、見えなかった輪郭が立ち上がる。 午後の目玉として出された特別な寿司膳は、中央にいちばん難しい漢字の魚を据え、その周囲を個性の違う仲間たちが囲む構成だった。佐久間が言う。 「看板は一匹じゃない。全部そろって看板だ」 志乃が茶を差し出し、辰夫がうなずく。 「町の連中にも、あの魚の名を覚えさせよう」 真琴は笑って頷いた。 「覚える楽しさごと、持ち帰ってもらいましょう」 夕暮れ、客たちは満足げに店を後にした。口々に難しい魚の名を繰り返しながら、どこか嬉しそうに笑っている。真琴はその背中を見送り、暖簾の揺れを見上げた。最初はただの読み間違いだった騒ぎが、いつの間にか店の名物になっている。予想外だったのは、難読の字ではなく、そこから広がった人の笑顔だった。 佐久間が帳場の黒板を拭きながら言う。 「明日からは、もっと難しい魚を仕入れるか」 真琴は少しだけ目を丸くし、それから吹き出した。 「困ります。でも、少し楽しみです」 箱の中では、最後まで主張の強かった一匹が、満足げに尾を揺らした。まるで、自分の名が町じゅうに広まるのを、もう知っているかのようだった。
難読魚の寿司店
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