閉店間際になると、さっきまで波立っていた店内の音が、嘘みたいに薄くなった。暖簾の向こうでは商店街の灯りがぽつりぽつりと滲み、カウンターの上には売り切れた皿の余白だけが残っている。玲は倒れかけていた看板を壁際へ寄せ、ひと息ついた。 「……やっと静かになったな」 「静か、か」 いちばん難しい漢字の札を背負った魚が、皿の上で小さく身をよじる。 「静かなのは、さっきまで余計なものが多すぎたからだ」 玲は苦笑した。 「確かに。見せ方だの話題性だの、そっちばかりが前に出てた」 「前に出たかったのは、お前たちではない」 別の魚が、珍しく声を低くした。 「珍しい字で呼ばれるのは、嫌いじゃない。だが、それだけで持ち上げられるのは違う」 「そうだ。読めない漢字を振り回されても、腹は満たされない」 玲はその言葉を、まっすぐ受け止めた。さっきまでの騒ぎの中で、魚たちは何度も隠れ、何度も札をずらし、ようやく本音を零したのだ。 「ちゃんと味わってほしい、か」 「そうだ。わたしは字面より先に、香りで覚えられたい」 「俺は、口に入ったときの歯ざわりだ」 「私は、ひと息遅れて来る旨みがいい」 玲は目を細める。読みづらい名前を消してしまうのは簡単だ。だが、それではこの店の面白さも、魚たちの誇りも消えてしまう。 「だったら、名前は残す」 「ほう」 「看板に漢字はそのまま置く。ただし、説明はしない」 魚たちが一斉に顔を上げた。 「説明しない?」 「そう。読むための店にしない。香りと食感で選ぶ店にする。漢字は入口、勝負は一口だ」 玲は札を一枚ずつ手に取り、灯りの下で眺める。どの字も相変わらず手強い。だが、もう怖くはなかった。 「難しい名前を見せるんじゃない。難しいまま、旨そうに見せるんだ」 「……悪くない」 最初に反応した魚が、尾をひとつ揺らした。 「それなら、わたしはわたしのままで置いておける」 「置いておくだけじゃない。ちゃんと味で迎える」 玲はそう言って、空になった皿をまとめる。店の奥では湯の気配がまだ残り、次の準備を待っているようだった。 「看板は残す。けど、押し売りはやめだ」 「ふん、やっと分かったか」 「遅いのは認めるよ」 玲が笑うと、静まりかけた店内に、今度は刺々しさのない笑いが落ちた。魚たちはもう跳ねない。ただ、皿の上で確かに待っている。 そのとき、風もないのに暖簾がふわりと揺れた。玲が顔を上げるより早く、店先の影がひとつ、すっと差し込んでくる。
難読魚の寿司店
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