「ここだ」 未希の声は低かった。井戸の縁に身を寄せたまま、彼女は暗い穴をじっと見つめている。 拓人も喉を鳴らした。底は見えない。ただ、夜気の奥で、まだ小さなささやきが続いている気がした。 「……本当に、ここなのか」 「たぶん、ね」 未希は短く返すと、足元を照らしていた懐中電灯の光を少しずらした。その先に、井戸のそばへ半ば埋もれるように置かれた木箱があった。 「これ、なんだ」 「納屋のほうから見えた。開けてみる」 拓人はうなずき、二人で木箱を引きずり出した。蓋は湿気で少し反っていたが、錆びた釘は一本だけで留まっていた。未希が先にこじ開けると、埃の匂いがふわりと立つ。 中にあったのは、古びた研究ノートだった。表紙は色あせ、角が欠けている。拓人がそっとページをめくると、細かな字で土の状態や水分量がびっしり書き込まれていた。 「研究……?」 未希がページの端を覗きこむ。 「農園の記録とは違う。誰かが調べてたんだ」 さらに箱の底には、厚手の袋が二つ、折り重なるように入っていた。ひとつには土壌改良用と印刷されている。だが、袋の口は未開封に近く、長く置かれたせいか紙面はしっとりしていた。 「これも、何か違うな」 拓人は眉をひそめる。 未希がノートをめくり、懐中電灯を近づけた。その指先が、ある一文で止まった。 「見て。ここ」 拓人も身を乗り出す。書かれていたのは、乱れた走り書きだった。 作物は環境に反応し、声で異常を訴えることがある その下には、何度も書き直した跡があり、別の行がにじむように残っている。 地下水の変化、声、応答、警告 拓人はページを見つめたまま、しばらく言葉を失った。 「異常を、訴える……」 「つまり、うるさいんじゃなくて」 未希が小さく息をつく。 「何かおかしいものに、反応してるってことか」 拓人の胸の奥が、じわりと重くなった。トマトも、きゅうりも、ナスも、ただ騒ぎたいわけじゃなかったのか。思い返せば、声の内容はいつも畑のどこかの違和感に触れていた。土の匂い、水の気配、根のあたりの変化。 「……守ろうとしてるのか」 ぽつりとこぼすと、井戸の底から返事のように、かすかな気配が揺れた。 『そうだよ』 その一言は、はっきりした声ではなかった。けれど、拓人には確かにそう聞こえた。 背筋に冷たいものが走る。それでも、恐怖だけではなかった。あの騒がしさは、ただの怪異じゃない。誰かが置いた何かに、作物たちが必死で抗っている。そう考えると、今までの騒がしさが、少しだけ違って見えた。 未希はノートを閉じ、袋の印字を指でなぞった。 「これ、まだ調べる必要があるね」 「……ああ」 拓人はうなずいた。納屋の闇の向こうで、風が板壁を鳴らす。井戸の底のささやきは、なお消えない。 彼はノートと袋を見下ろし、静かに息を吸った。 騒がしい野菜たちの正体は、まだ分からない。だが、その声が何かを知らせようとしていることだけは、もう疑いようがなかった。
しゃべる野菜の収穫日
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