春日ひまりは、疑いを胸に抱えたまま瀬尾悠真の横顔を見るたび、心のどこかで小さくつまずいた。朝の湯気の立つ味噌汁、帰宅後に脱ぎ散らかされない靴、約束どおりに鳴る迎えの電話。どれも変わらないのに、変わらないこと自体が、かえって彼女を落ち着かなくさせた。 「今日は何かあったのか」 何気ない一言に、ひまりは何度も真実へ手を伸ばしかけた。けれど、口を開こうとした瞬間に母から電話が入ったり、悠真が来客で席を外したり、あるいは自分が棚に頭をぶつけて会話どころではなくなったりする。相談の機会は、まるで誰かに折りたたまれたように消えていった。 職場でも同じだった。古い記録を照合したいと願いながら、ひまりは主任の部屋の前で別件を頼まれ、資料室ではコピー機に紙を詰まらせ、やっと掴んだ退職警備員の連絡先はメモごと落としてしまう。それでも彼女は拾い集めた。夜更けの机で、指先をインクで黒くしながら、証言を並べ、欠けた時刻を埋めていく。父が消えた夜、倉庫会社の裏口付近に停まっていた車。立ち入り記録の空白。悠真の勤め先から飛んできた内線。点だったものが、細い糸で結ばれていく。 そんなある日、ひまりはようやく退職した総務担当に会えた。駅前の喫茶店で、相手は砂糖を溶かしながら、当時のことをぽつりぽつりと話した。父は何かを見つけて慌てていたらしいこと、誰かと争った形跡はなかったこと、しかし別室で書類の束が入れ替えられたあと、部署の空気が妙に張りつめたこと。さらに、悠真の名はその場に出なかったが、彼と同じ時期に出入りしていた人物がいたという。 ひまりは胸を強く押さえた。悠真ではない。けれど、悠真は知っていたのではないか。彼の優しさは、罪の上に置かれた布なのではないか。そう思うたび、怒りがこみ上げる。だが、彼女は焦ってはいけないと自分に言い聞かせた。父の事件は、誰か一人を責めれば終わるものではない。隠した人、見過ごした人、書き換えた人。その全体を見なければ、父はまた曖昧なまま消えてしまう。 その夜、ひまりは倉庫会社の古い保管庫に忍び込んだ。もちろん正規の手続きを踏んだはずだったが、許可印の確認を一枚忘れ、入口で守衛に呼び止められ、慌てて敬礼した拍子に帽子を落とす。顔から火が出そうになりながらも、事情を説明し直し、ようやく中へ入れた。彼女は棚の奥で、破れかけた封筒を見つける。中には、父の失踪当夜の搬出記録と、別人名義で差し替えられた受領書があった。そしてその筆跡の癖は、以前資料で見たある人物のものと一致する。 その名前を見た瞬間、ひまりの背筋が冷えた。父を追い込んだのは、婚約者ではない。もっとずっと近くで、誰よりも事情を知る立場にいた人物だった。悠真は、その渦に巻き込まれただけかもしれない。あるいは、誰かを守るために沈黙していたのかもしれない。 ひまりは封筒を胸に抱えた。涙は出なかった。代わりに、妙に静かな息が一つ漏れた。ようやく、迷路の曲がり角に立てた気がした。のろまでも、失敗しても、真実は落ちてこない。自分で拾いにいくしかない。 翌朝、彼女は震える手で資料を整理し、上司の前に立った。今度は逃げなかった。うまく説明できず何度も言い直したが、最後まで黙らなかった。ひまりの報告は、誰も予想しなかった角度から事件を照らし返した。父の失踪は事故ではなく、会社ぐるみの隠蔽に巻き込まれた結果だった。そして、その中心にいたのは、ひまりが疑っていた人物ではなく、別の影だった。 その知らせを聞いた悠真は、しばらく何も言わなかった。やがて彼は、ひまりの前で深く頭を下げた。自分も若い頃、同じ会社の不正に気づいて追い出されかけ、ひまりの父を守れなかったのだと。彼は加害者ではなく、長く口を閉ざしていた証人だった。ひまりは唇を噛んだ。安堵と怒りと、失われた時間の痛みが、一度に押し寄せる。 それでも彼女は、彼の肩を突き飛ばさなかった。ただ、背筋を伸ばして言った。 「なら、今度は一緒に証明して」 悠真は驚いた顔で、それから少しだけ笑った。ぎこちなく差し出された手を、ひまりはまだ少し震えながら握り返す。のろまな亀と呼ばれた彼女は、ようやく誰よりも誠実に歩く速さを知った。真実は遠回りの先にあったが、その道の終わりで待っていたのは、ただの許しではなく、もう一度始めるための静かな朝だった。
のろまな亀、真相を追う
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