夜の潮は冷たく、埠頭の倉庫街には錆びた鉄と湿った木箱の匂いが沈んでいた。彩はシャツの袖を握りしめ、薄暗い街灯の下で慎吾を待つ。遅れてきた足音が近づくたび、胸の奥の鼓動が嫌に大きくなる。 「来たのか」 「来た。逃げないで答えて」 慎吾は短く息を吐いた。いつもの穏やかさはなく、警戒した目だけが夜に浮かぶ。 「父さんのこと、知ってるんでしょう」 「知らないと言ったはずだ」 「嘘。私、もうごまかされない」 彩は資料室で見つけた修正跡の記憶を思い返しながら、一歩踏み出した。慎吾の表情が一瞬だけ強張る。その沈黙が、答えより雄弁だった。 「……彩、ここで話すな」 「だったらどこで話すの。私は、あの人を殺した相手を」 言い切ろうとした、そのときだった。倉庫の奥で、金属をこするような音がした。 「おや、ずいぶん物騒だな」 低い声が、暗がりから滑り出る。続いて、二つ、三つと人影が現れた。彩は思わず息を止める。慎吾も顔を上げ、舌打ちした。 「まだいたのか」 「逃がすと思った?」 男たちの一人が笑う。その笑いは、潮風より冷たかった。 「事件の夜、見て見ぬふりをした連中がいた。記録も足跡も、都合よく消えた。あれは事故なんかじゃない、隠すための段取りだよ」 彩の指先が震えた。父の死が、たった一人の誰かの衝動ではなく、もっと大きな手で包み隠されていた。胸の中で、怒りが形を変える。 「じゃあ、慎吾は……」 「おい、勝手に決めるな」 慎吾の声が鋭く跳ねた。彩ははっとして彼を見る。彼の目には、否定だけではない焦りがあった。 「俺はおまえの敵じゃない。だが、今ここで単独で動けば、おまえが先に潰される」 「でも、あなたも隠してる」 「隠してた。だが今はそれどころじゃない」 倉庫の奥で、また男たちが動く気配がした。彩は唇を噛み、握っていた手をゆるめる。復讐のために一人で突っ込めば、真実にたどり着く前に終わる。そんな予感が、冷たい水みたいに背中を這った。 「……わかった」 自分でも驚くほど小さな声だった。 慎吾が一瞬だけ目を見開く。 「今だけよ。今だけ、一緒に動く」 「十分だ」 その返事に、二人の間にあった張り詰めた糸が、かすかに組み替わる。信じたわけじゃない。許したわけでもない。それでも、同じ敵を見た瞬間だけは、同じ方向を向ける。 男たちが倉庫の内側へ踏み込んでくる。彩は慎吾の横に立ち、息を整えた。怖い。けれど、もう一人ではない。初めてそう思ったその瞬間、闇の中の視線が、二人をまとめて射抜いた。
のろまな亀、真相を追う
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