春日ひまりが最後にたどり着いたのは、もっとも疑いたくなかった場所だった。瀬尾悠真の部屋でも、倉庫会社の奥でもない。父の失踪当夜に使われた旧通信室の、封印された記録棚。その鍵を開ける手がかりを持っていたのは、意外にもひまりが何度も聞きそびれていた元管理人の老職員だった。 「若い人は急ぎすぎる。だが、君は遅いぶん、落ちたものを拾う目がある」 そう言われたとき、ひまりは苦笑するしかなかった。褒められているのか、からかわれているのか分からない。だが、その老職員が差し出した古い台帳を見た瞬間、ひまりの背筋は冷たく伸びた。父の名の横に並ぶ不自然な搬出時刻、差し替えられた受領者、そして空欄のはずの欄に、薄く残る消し跡。何度も書き換えられた痕が、ようやく一つの線になった。 その夜、ひまりは悠真を呼び出した。庁舎の裏は風が強く、紙の端が震えた。彼はいつものように静かだったが、ひまりが台帳を置いた瞬間、その静けさが少し崩れた。 「あなた、全部知ってたんでしょう」 怒りが先に立つはずだった。なのに、声は思いのほか低かった。悠真はすぐに否定せず、しばらく紙面を見つめてから、ゆっくり首を振った。 「知っていた部分はある。でも、君のお父さんを追い込んだのは俺じゃない」 彼の口から出たのは、言い訳ではなく、ひどく歪んだ過去だった。若いころ、会社の不正を見過ごしたのではなく、内部告発を試みて失敗し、その後は監視役のように扱われていたこと。父が失踪した夜、悠真は偶然その通信室で別件の記録改ざんを手伝わされ、そこに父の名が紛れ込むのを見てしまったこと。だが、止めれば自分の家族まで巻き込まれると恐れて、口を閉ざしたという。 ひまりは息を呑んだ。婚約者は敵ではなかった。けれど、完全な味方でもなかった。その曖昧さが、胸を刺した。 「じゃあ、誰が」 「上司だ。今も残っている」 その瞬間、ひまりの中で点だった怒りと疑いが、ようやく一本の矢になる。彼女は走り出しかけて、足をもつれさせた。盛大にベンチへ手をつき、膝を打ってしまう。悠真が慌てて支えようとしたが、ひまりは自分で立ち上がった。悔しいのに、少しだけおかしかった。こんな大事な場面で転ぶなんて、自分らしすぎる。 翌日、ひまりは集めた証拠を持って会議室へ入った。途中で封筒を落とし、資料が床に散らばった。主任が顔をしかめたが、ひまりは一枚ずつ拾いながら話し始めた。父の失踪は偶然ではない。改ざんされた記録があり、通信室の利用履歴があり、悠真ではなく別の人物の関与がある。声が震えても、途中で噛んでも、彼女は止めなかった。 やがて内偵が動き、古い上司の自宅から隠していた帳簿が見つかった。父は会社の不正を見つけたために排除されたのではなく、その不正をめぐる証拠を守ろうとして、第三者に連れ出され、別件の混乱に巻き込まれていたのだ。真相は残酷だったが、ひまりは目をそらさなかった。父は闇に消えたのではなく、誰かを守るために最後まで立っていた。 その報告が正式に認められた日、庁内の空気は少しだけ変わった。のろまな亀と呼ばれていた彼女に、先輩たちは初めてはっきり頭を下げた。速さではなく、逃げずに積み上げたものが評価されたのだ。 夕暮れの廊下で、悠真が待っていた。彼は前より少しだけやつれていたが、目はまっすぐだった。 「まだ、許してはもらえないよな」 ひまりは少し考えてから、首を振った。 「許すかどうかは、まだ決めない。でも、終わったことにはしない」 悠真は小さく息をつき、うなずいた。ぎこちない沈黙のあと、ひまりは自分から手を差し出した。握ると、以前より少しだけ冷たかった。それでも、もう隠れたところで触れ合う関係ではない。 のろまな亀は、ようやく自分の歩幅で前を向いた。真実は遅れて届いたが、その遅さこそが、誰より誠実にたどり着いた証だった。
のろまな亀、真相を追う
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