エラベノベル堂

のろまな亀、真相を追う

全年齢

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9章 / 全10

彩は慎吾と別れた後も、雨の匂いがまだ服に残っている気がして、何度も袖口を指先で払っていた。署の廊下は昼過ぎの熱が少し引き始めているのに、胸の内だけは落ち着かない。修正された報告書、あの夜の車両、複数の足跡。断片はあるのに、黒幕へ届く一本の線がまだ見えない。 「……考えても仕方ない」 そう呟いたところで、頭の隅に引っかかっていたものがふっと浮かぶ。署の奥にある、普段は職員以外が近づかない保管庫。古い証拠や帳票が積まれていると聞いたことがある。署内の協力者を探すなら、まずそこを確かめるべきだ。彩は自分の足取りが遅いのを自覚しつつ、廊下の角を曲がった。 市役所裏に回ると、建物の影で風が少し冷たくなる。無機質な扉の向こうに、資料保管庫特有の紙と埃の匂いが眠っているような気がした。彩は腕章を確かめ、静かに中へ滑り込む。 「よし、誰もいない」 そう思ったのも束の間、廊下の奥で靴音が止まった。 「おい、そこの人!」 低い声に、彩の背筋が跳ねる。振り向けば警備員がこちらを見ていた。逃げるべきだと分かるのに、足が一瞬もつれる。 「ま、まずい……」 棚の隙間へ身を隠そうとして、手元にあった箱を引っ掛けた。中から転がり出たのは、なぜか亀の着ぐるみだった。どうしてこんなものがここにあるのか考えるより先に、彩の体は勝手にそれを抱えていた。 「それを着るのか?」 警備員の声が近づく。彩は顔から火が出るのを感じながら、半ばやけくそで頭を通した。視界が狭くなり、動きにくくて、ひどく間抜けだ。 「ちょ、待って、これは違うんです」 「違うって、なんだその格好は」 「私もそう思ってます!」 言い返しながら、彩は亀のまま廊下をよろよろと進んだ。自分でも笑いそうになるほど滑稽なのに、足元は不思議と静かに前へ運ばれる。追われているはずなのに、皮肉なことに、この姿なら怪しまれにくい。 「亀、待て!」 警備員の声が背中を追う。彩は必死に振り切り、保管庫の奥へ転がり込んだ。そこで見つけたのは、積み上がった箱の陰にひっそり置かれた古い帳簿だった。 表紙は擦り切れ、端には改ざんされたような痕がある。彩は着ぐるみのまま膝をつき、息を飲んだ。 「これ……」 ページをめくると、事件に絡む名の並びと、不自然に消された記録が目に飛び込んでくる。書き換えられた日付、抜け落ちた搬出記録、現場とは別の流れを示す控え。黒幕が証拠を消しただけではない。帳簿そのものが、隠蔽の骨組みだった。 彩の喉が震えた。 「これがあれば……逮捕状の請求に足りる」 亀の頭をかぶったまま、彼女は帳簿を抱きしめる。情けないほどおかしな格好なのに、手の中の紙束だけはやけに重く、確かな手応えがあった。 扉の外で、まだ警備員の足音がする。だが今はもう、隠れて震えるだけではない。笑いを誘う失態が、ようやく真実へ手を伸ばしたのだ。彩は帳簿の角をしっかり押さえ、次の一歩を踏み出す準備をした。

9章 / 全10

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