春日ひまりは、怒りに足を取られそうになりながら、それでも走るのをやめなかった。父の失踪に瀬尾悠真が関わっていたかもしれない。そう疑っていた日々は、もう遠いようで近い。彼の沈黙は、ひまりの胸を何度も刺した。けれど今、彼女の手の中には、疑いを裏返すだけの証拠が集まり始めていた。 深夜の資料室で、ひまりは封筒を机に広げた。倉庫会社の搬出記録、古い通話の写し、退職した総務担当の証言、そして通信室の利用台帳。見慣れた紙片は、ばらばらのままではただのゴミみたいだったのに、並べると奇妙なくらい筋が通る。父の名が消えた夜、記録の改ざんを指示した声は、悠真ではなく、今も会社に残る古参の責任者のものだった。ひまりは息を飲んだ。怒りが少しだけ行き場を失い、代わりに冷たい確信へ変わる。 翌朝、彼女は会議室へ向かったが、そこでまたつまずいた。大事な封筒を廊下で落とし、散らばった紙を拾っているうちに主任が通り過ぎる。慌てて呼び止めようとして、今度は自分の靴ひもを踏んで膝をついた。周囲に小さく笑われたが、ひまりは顔を上げた。恥ずかしさより先に、言わなければならないことがあったからだ。 父の失踪は事故ではない。倉庫会社ぐるみの隠蔽だ。彼女は震える声でそう告げ、証拠を机いっぱいに並べた。空白になっていた時間、消された受領書、改ざんされた搬出記録、そして残っていた録音の写し。指さすたびに紙がずれ、説明は何度も途切れた。それでもひまりは引かなかった。のろまでも、下手でも、真実だけは落とさない。そう決めていた。 会議が終わるころには、主任の顔色が変わっていた。すぐに内偵が始まり、封印されていた帳簿が引き出される。ひまりは廊下の端で、ようやく膝の力を抜いた。その前に、悠真が静かに現れる。彼は何も弁解しなかった。ただ、深く頭を下げた。 「君のお父さんを傷つけたのは、俺じゃない」 ひまりは目を伏せた。知っていたはずの言葉なのに、今はひどく重かった。悠真は若い頃から会社の不正を知り、告発に失敗し、沈黙を強いられていたという。父の失踪当夜も、彼は現場にいなかった。だが、助けられたはずの時に何もしなかった。その事実は消えない。 「じゃあ、なんで何も言わなかったの」 声が震えた。怒鳴りたかったのに、ひまりの声は妙に静かだった。 「怖かった。家族も、自分も失うと思った」 その答えは、許しにはならない。けれど、ただの裏切りでもなかった。ひまりは唇を噛み、目の奥にたまった熱を飲み込む。父を苦しめたのは悠真ではない。だが、真実を遅らせたのは、確かに彼の沈黙だった。 その日の夕方、ひまりは報告書を提出した。今度は一度も逃げなかった。言葉はつっかえ、何度も言い直したが、最後まで言い切った。父の事件は、事故でも失踪でもなく、会社の隠蔽に巻き込まれたものだと。中心にいた男は長く表に立っていたこと。悠真は加害者ではなく、巻き込まれた証人だったこと。隠されていた構図は、ひまりの報告でようやく輪郭を持った。 夜、庁舎を出ると風が冷たかった。そこに悠真が待っていた。近づきすぎず、ただ黙っている。その距離が、以前より少しだけ誠実に見えた。 「今すぐ許せとは言わない」 ひまりは少しだけ笑った。ぎこちなくて、不器用で、それでも嘘のない笑みだった。 「うん。だから、終わりにもしない」 悠真は驚いた顔をして、それから静かにうなずいた。のろまな亀と笑われた自分が、最後に選んだのは、誰かを追い詰める勝利ではなかった。真実を暴き、誤解をほどき、壊れたままの関係に向き合うことだった。父の名前はようやく光の下に置かれた。ひまりは空を見上げ、少しぎこちない足取りで、次の朝へ歩き出した。
のろまな亀、真相を追う
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