昼休みの中庭は、思ったよりも人の流れが速かった。学食へ向かう列が、ベンチの前を何度も横切っていく。陽奈はその先頭と最後尾を目で追いながら、まだ来ない順番を待っていた。 「……ねえ、今の、ちょっと抜かしたよね」 紬が視線だけを向ける。言葉は静かなのに、観察は鋭い。 「え、そうでした?」 陽奈が首をかしげると、莉奈がベンチの背にもたれたまま笑った。 「だったら、落語にしようよ。ほら、時そばの気分で」 「気分でって何ですか」 「気分で十分だよ。大事なのは、見たことをそのまま言うんじゃなくて、リズムにすること」 紬がそう言って、指で机代わりの膝を軽く叩く。 「一、二、三、四。列の進み方を数える感じで。順番抜かしに見えるなら、そこを拍にする」 陽奈は目の前の流れを見直した。たしかに、誰かが一歩進むたびに、周りの空気も少しだけ揺れる。 「じゃあ、私が最初に気づいたことにします」 「お、いいね」 莉奈が目を細める。 「『あれえ、今の一人、列を通り越してるんじゃないの』って」 「そこまで言うと、ただの文句です」 「文句も語りようだよ。ほら、ひと息置いて」 紬が手を軽く上げる。陽奈はそれに合わせて、わざと少し間をあけた。 「……あれえ、今の一人、列を通り越してるんじゃないの」 「そうそう」 紬がうなずく。 「次に、その人がどう見えたかを足す。急いでるのか、気づいてないのか、あるいは自分の列だけ時間が早いのか」 「最後のやつ、変ですよ」 「変だけど、笑えるでしょ」 莉奈がすぐに乗る。 「じゃあ私は、その人の後ろにもうひとりいることにする。『おいおい、前の人、行列と仲直りできてないじゃないか』って」 陽奈は吹き出した。 「それ、完全に別の事情になってませんか」 「落語ってそういうものだよ。見えた一瞬を、少しだけ大げさにする」 紬が言う。 「でも、元の目線は残す。そこが大事」 陽奈はうなずいて、さっきより真剣に列を見た。誰かの手が上がる。誰かが振り向く。そのたびに、普通の昼休みが少しずつ形を変えていく。 「ねえ」 陽奈が言った。 「今の、ただの割り込みじゃなくて、話の入口にできる気がします」 「できるできる」 莉奈が笑う。 「しかも、オチは最後に私が足す」 「勝手に決めないでください」 「だって、最後に一言あると締まるでしょ。『抜かしたつもりが、抜かされた方が先に着いた』とか」 「うわ、ありそうで嫌ですね」 紬は小さく笑って、陽奈の方を見た。 「今の感覚、覚えておくといいよ。日常の小さな違和感って、気づいた人のものになる。そこに構成が乗って、莉奈が落ちる」 「私は落ちる担当なんですか」 「即興で足す担当」 「それ、だいぶ便利に使われてる気がする」 陽奈は笑いながら、列の動きをもう一度追った。行列の先頭が少し前へ進む。その一歩だけで、三人の話題が次々と転がる。 「よし」 紬が言う。 「このまま、今見たことを十秒で言い直してみよう。陽奈は観察、私は形、莉奈は締め」 「了解」 「任せて」 陽奈は息を吸って、列の揺れと、ベンチのぬくもりと、二人の横顔をいっぺんに見た。日常会話は、ただ流れていくものだと思っていた。でも今は違う。何気ないひと言が、拍になり、型になり、笑いに変わっていく。 「ええと、今の列、ちょっとした顔つきで順番が動いたんです。で、前の人が気づいたのか気づかないのか、もう一歩だけ早く進んだみたいで……」 「そこに一言」 莉奈が即座に割り込む。 「『急ぐ気持ちは先に並べても、順番までは並ばない』」 紬が満足そうに目を細めた。 「うん。だんだん、日常がそのままネタになる感じが掴めてきたね」 陽奈は、その言葉に胸の奥が少し温かくなるのを感じた。列はまだ続いている。けれど待つ時間さえ、もう退屈じゃない。 「次、私が見つけたら、もっと面白くできます」 「期待してる」 「楽しみ」 莉奈の軽い返事に、紬の静かなうなずきが重なる。陽奈はベンチの端を指でなぞりながら、列の向こうで揺れる昼の光を見つめた。さっきまでただの順番待ちだった時間が、もう少しで一席の始まりになりそうだった。
落語部の昼下がり
全年齢小説ID: cmnhbgcux006f01o78rbc6hen
