本番前夜、部室は妙に静かだった。静かといっても、誰も口をきかないわけではない。先輩は湯呑みを傾けながら 「明日は客が多いといいな」 と言い、同級生の女子は 「多いより、笑う人が多いほうがいい」 と返す。男子は座布団の角をそろえながら、なぜか神妙な顔をしていた。私は台本を握ったまま、胸の奥に小さな石を抱えているみたいだった。 通し稽古の途中から、どうも様子がおかしかった。私の出だしに合わせて場が動くはずが、一拍ずつずれていく。最後には私が振る扇子の先が、隣の男子の額に軽く当たった。痛くはないはずなのに、彼は大げさにのけぞり、部室にいた全員が噴き出した。 「今の、狙っただろう」 「狙ってません」 「いや、狙った顔してた」 言い合いになりかけた空気を、先輩が手を叩いて止めた。 「いい。今のは本番で起きたら、客が喜ぶやつだ」 「喜ぶ前に、私が謝ります」 「そこで謝ると損だ。謝罪より先に、笑いに変えろ」 その一言で、私ははっとした。私はずっと、失敗しないことばかり考えていた。けれどこの部では、失敗は隠すものではなく、拾って転がすものだった。そう思うと、さっきまで重かった台本が少しだけ軽くなる。 すると突然、部室の明かりが一つ消えた。古い配線が限界だったらしい。暗がりの中で誰かが 「あれ、もう高座の稽古か」 と呟き、別の誰かが 「落語は影でもできる」 と返す。先輩が懐中電灯を掲げたが、光は妙に細く、顔の下半分だけを照らした。そのせいで皆、少しおかしな表情に見える。 「これはこれで、怖い話みたいですね」 私が言うと、先輩はにやりとした。 「怖い話なら、最後にオチがいる。さあ、誰か一席頼む」 誰も動かない。すると同級生の女子が、なぜか私の台本をぱっと取り上げた。 「じゃあ、ここからは私が読む」 「えっ」 「役割逆転。今日の稽古はそれ」 彼女は私の出だしを、私よりずっと軽やかに読んだ。私は思わず自分の台詞を返し、男子はずれていた間をわざと外して受ける。暗い部室の中で、声だけが妙に生き生きと跳ねた。最後には先輩まで扇子を閉じて笑っていた。 帰り支度の頃、明かりはようやく戻った。けれど私は知ってしまった。完璧な出番を待つより、少し壊れた場面を誰かと受け止めるほうが、ずっと落語らしいのだと。 明日の高座で何が起きるかはわからない。それでも、私たちはたぶん笑える。そう思った瞬間、台本の端に貼られた目印の紙がはらりと落ちた。裏返すと、見慣れない字でたった一行だけ書かれている。 お客さんが最初に笑うのは、演者ではなく、予想外に味方した日常だ 私はその文を見つめ、なぜか少しだけ背筋が冷えた。書いたのが誰か、すぐにはわからなかったからだ。
落語部の昼下がり
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