エラベノベル堂

落語部の昼下がり

全年齢

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8章 / 全10

講堂の袖は、思っていたよりずっと狭く感じた。椅子を並べた向こうから、ざわざわした客席の気配が波みたいに押し寄せてくる。陽奈は台本を握ったまま、指先の汗をこっそり拭った。 「……人、多くない?」 声が少しかすれた。紬がすぐ隣で、落ち着いた顔のまま客席の方を一度だけ見る。 「想定より入ってるね。でも、数に飲まれないで。骨格は昨日までで作った通りだから」 「骨格って言うと、急に大仕事っぽい」 莉奈が肩を回しながら笑う。けれど、その笑いも少しだけ硬い。 「硬いね、莉奈」 「だって、袖って逃げ道ない感じするじゃん」 「逃げる前提で来てるの?」 「前提じゃないけど、心の準備はしてる」 そんなやり取りの最中にも、客席のざわめきは増していく。陽奈は一度深呼吸してから、耳を澄ませた。話し声の高さ、笑いの混ざり方、前列の落ち着き方。まだ始まっていないのに、相手の空気が少しずつ見えてくる。 「ねえ」 陽奈が小さく言う。 「今の感じ、最初の間をちょっとだけ長めに取った方がいいかも。思ったより、みんな前のめりだ」 紬が頷いた。 「いいね。説明を急ぐと、置いていかれる人も出る。骨格は守って、入口だけゆっくり」 「了解。じゃあ私、沈黙が来たら焦らず待つ」 莉奈がにやっとする。 「待つだけじゃもったいないから、その一拍で笑える顔しとく?」 「顔で笑いを取るの、やめてってば」 「でも、間が空いたときって、顔が一番しゃべるよ」 紬が短く息をついて、少しだけ口元を緩めた。 「そこは確かにあるかも。古典の型を全部説明しすぎないで、わかる人にはわかる、わからない人には空気でわかる、くらいがちょうどいい」 陽奈は何度かうなずいた。前に覚えた言葉をそのまま並べるんじゃない。知っている人にはひっかかりになり、知らない人には流れとして届く。その加減が、今日はいちばん難しい。 「転失気の話も、芝浜の空気も」 陽奈は台本の端を指で押さえながら言った。 「説明し始めたら重くなるけど、雰囲気だけなら残せるよね」 「うん」 紬が即答する。 「名前を出すより、聞き違いの妙とか、誤解がほどける瞬間とか、そこだけ残せば十分」 「私たちの言葉で言い直す、ってことか」 莉奈が台本を覗き込んで、ふっと笑う。 「それなら簡単。って言いたいところだけど、実際は全然簡単じゃないやつ」 「でも、できてきてる」 紬の声は静かだったが、揺れはない。 「陽奈は客席の反応を見て、間を調整する。私は流れを崩さない。莉奈は沈黙を笑いに変える。役割はもう、決まってる」 陽奈はその言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。 「……よし」 客席から、開演を告げるような小さな動きが起こる。袖の空気が、すっと引き締まった。 「いこう」 誰が言ったのか、もうはっきりしない。でも三人とも、同じ一歩を踏み出す準備だけはできていた。

8章 / 全10

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