エラベノベル堂

落語部の昼下がり

全年齢

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8章 / 全10

文化祭の翌朝、部室の引き戸を開けると、昨日までの熱気が嘘みたいに静かだった。畳の上には片づけ損ねた座布団が一つ、机の端には赤い印の台本、そして誰も触っていないはずの湯呑みが並んでいる。私はそれを見て、ようやく昨夜の拍手が夢ではなかったと知った。 「おはよう。昨日は見事だったな」 先輩がいつもの調子で言う。だが私はその声の奥に、少しだけ照れが混じっているのを聞き逃さなかった。 「ありがとうございました。でも、最後の返却期限の印は、何ですか」 「図書室の台本を借りたままだったんだ。まさか本番で気づくとは思わなかった」 同級生の女子が吹き出す。男子は頭をかきながら、昨日の失敗をまだ引きずった顔をしていた。 「俺、あの台本を持って走った時点で、もう噺になってましたよね」 「なってたな」 先輩は即答した。 「だから落語は強い。失敗は消えないが、話にはなる」 私は台本をめくった。欄外の書き込みは、どれも練習の日々で増えたものだ。声の置き方、間の作り方、うっかり転んだ小道具まで、全部が印みたいに残っている。客席の笑い声を思い出すと、胸の奥がじんわり温かい。 その時、廊下の向こうから図書委員の一年生が顔を出した。 「すみません、その本、返却に来ましたか」 全員が一瞬固まる。だが先輩は、まるで待っていたみたいに扇子を開いた。 「もちろんだ。昨日の高座で、そちらまで一席届いたようでな」 一年生はきょとんとしたあと、急に目を輝かせた。 「見ました。途中で男子の方が扇子を落として、でもそれが一番おもしろかったです」 部室がどっと笑う。男子は耳まで赤くなったが、満更でもない顔をした。私はそのやり取りを見ながら、文化祭で笑っていたのが客席だけではなかったことに気づく。校内のあちこちに、あの時間はちゃんと届いていたのだ。 「来年もやるか」 先輩が何気なく言う。 私は少し考えてから、台本を胸に抱き直した。 「やります。今度は、返却期限ぎりぎりじゃない台本で」 「それは大事だな」 同級生の女子が笑い、男子がうなずく。窓の外では、秋の光が廊下の先まで白く伸びていた。 日常は、ただ過ぎるだけのものだと思っていた。けれど落語部にいると、何でもない失敗も、ふとした勘違いも、誰かの一言で噺に変わる。私はそのことを、昨日の拍手よりも少し遅れて実感していた。 帰り際、図書委員の一年生がもう一度振り返る。 「次も、見に来ていいですか」 「もちろん」 私が答えるより先に、先輩が笑って頷いた。 その一言で、部室はまた少しだけ賑やかになる気がした。私は扇子を鞄にしまい、仲間たちと並んで廊下へ出た。明日も、明後日も、きっとここには話の種が転がっている。そう思うと、何でもない朝が、また新しい一席の始まりみたいに思えた。

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