幕が上がる直前の空気は、袖で待っていたときよりずっと薄く、なのに肌にまとわりつくようだった。陽奈は最初の一歩を踏み出しながら、客席のざわめきが遠くへ引いていくのを感じる。紬が横で姿勢を正し、莉奈は半歩遅れて、いつも通りの飄々とした顔を作った。 最初の口上は順調だった。陽奈が客を見て間を取り、紬が台本の骨格を支え、莉奈が一拍遅れた沈黙をすくい上げる。笑いもちゃんと返ってくる。よし、いける。そう思った、そのときだった。 紬の手が、ふと止まった。 「……あれ」 小道具の箱の中を、何気ない顔で覗き込む。その視線の先にあるはずのものが、ない。 陽奈が息を呑んだ。 「足りない」 「うそでしょ」 莉奈の声が、珍しく素で裏返る。 紬は一拍だけ黙って、それから静かに息を吐いた。 「慌てない。ここで崩すと、全部崩れる」 「でも、ないよ?」 「あるように見せればいい」 陽奈は、その言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。だが次の瞬間、紬がまっすぐ客席へ向き直り、何も持たぬ手で、あるはずのものを扱う所作を始めた。 「ええ、そこに置いたはずの茶碗が……」 その声だけで、空の手の先に茶碗の輪郭が立ち上がる。莉奈がすぐに乗る。 「おいおい、見えないだけで片付いた気になるなよ」 「見えております」 「見えてたら、今ごろ騒いでない」 客席から、くすりと笑いが漏れた。 陽奈は、そこでようやく気づく。足りないのは道具そのものではなく、道具がある前提で固まっていた自分たちの思い込みだったのだと。 「失礼。今のは、わたしの手が先に迷いました」 陽奈がさらりと言うと、笑いが少し大きくなる。すると紬がうなずいた。 「迷ったなら、迷った手つきで続ければいい」 「続けるの?」 「続ける」 莉奈は片手を広げ、そこに何か重みがあるふうに受け取る仕草をした。 「ほら、ありませんって顔で持つと、むしろ見えるんだよね」 「何が」 「ないものが」 そのやり取りだけで、客席の想像が勝手にふくらんでいくのがわかる。見えないはずの小道具が、三人の所作と台詞のあいだで確かに存在し始めていた。 陽奈は胸の奥が熱くなるのを感じた。足りないからこそ、客は想像で補う。説明しないからこそ、空白が笑いになる。 紬が視線だけで流れをつなぎ、莉奈が間をずらして客の呼吸を誘う。陽奈はそこへ、いつもより少しゆっくりと声を落とした。 「なるほど。ないならないで、話は進むんですね」 「進むさ」 紬が言う。 「むしろ、今の方がよく見えることもある」 「そうそう。見えないものほど、みんな好き勝手に想像するから」 莉奈のひと言で、客席に再び笑いが広がった。 不足が焦りを呼ぶ代わりに、空白を埋める遊びへ変わっていく。三人の呼吸がそろうたび、欠けたはずの場面が、かえって鮮やかになっていく。 陽奈は、客席の顔が一斉に前へ傾くのを見た。誰も小道具の不足を責めていない。ただ、次に何が起こるのかを楽しみにしている。 「……いける」 陽奈の小さな独り言に、紬が目だけでうなずく。 「ええ、むしろ、ここからだ」 莉奈がにやりと笑った。 「ないならないで、もっと面白くしようか」
落語部の昼下がり
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