エラベノベル堂

八十歳の山歩き

全年齢

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3章 / 全10

そのときだった。慎太郎が改造された杖を握り直し、次は何を持っていけばいいのかと首をひねる。孫が 「店に行けば、いろいろ見てもらえるよ」 と言うと、慎太郎はすぐに立ち上がった。 翌朝、商店街はまだ開店前の店も多く、ひんやりした空気が通りを流れていた。慎太郎は登山用品店の前で看板を見上げ、深くうなずく。 「ここだな」 「本当に来たんだ」 店員の青年は、入ってくるなり目を丸くした。慎太郎は胸を張り、杖を少し高く掲げる。 「まず、これを見てくれ。山で使えるようにした」 「杖、ですね」 「ただの杖ではない。山仕様だ」 青年は困った顔で笑い、慎太郎の手元をのぞき込んだ。 「滑り止めはいいんですが、先端の金具、少し用途が違いますね。あと、リュックはどのくらいの行程を想定してます?」 「行程?」 慎太郎は言葉を返せず、しばらく黙り込んだ。だがそこで、店の奥から出てきた常連らしい年配客が、面白そうに口を挟む。 「おいおい、その顔は初心者かい。山はな、気合いで詰めると後で泣くぞ」 「泣かん」 「じゃあ、まずは重さを減らせ」 青年がうなずき、慎太郎のリュックに触れる。 「水筒は大きすぎます。代わりに、飲みやすいサイズを二つに分けたほうがいいです」 「二つも?」 「はい。ひとつを落としても、もうひとつがありますから」 その理屈に慎太郎は感心したように眉を上げた。周囲の客も、それを見てくすくす笑う。だが笑いは、じきに別の驚きへ変わった。 「慎太郎さんって、もしかして昔、山に入ってました?」 常連客が尋ねると、慎太郎は少しだけ目を細めた。 「若いころはな。あの山で道を読み違えて、雨の中を半日さまよったことがある」 「それ、失敗談じゃないですか」 「失敗して覚えるのが山だ」 言いながら、慎太郎は棚の上の地図を見て、懐かしそうに指先を動かした。 「あのころは、今みたいに便利な道具もなかった。だが、空の色と風の匂いで、どこにいるかはだいたいわかった」 青年は思わず背筋を正した。 「それなら、道具より経験のほうが役に立つ場面もあるんですね」 「あるとも。だから、わしはまだ負けておらん」 慎太郎の声には、冗談ではない重みがあった。店内の空気が少し変わる。さっきまで物珍しさで見ていた客たちが、今度は本当に目を向けた。 「その歳で山へ行くつもりなら、無茶じゃないって言うのは無理だ。でも、準備の仕方は見直したほうがいい」 常連客の言葉に、慎太郎はむっとしかけ、しかしすぐに肩の力を抜いた。 「そうか。では、見直す」 「素直じゃないか」 「行くと決めたからな」 青年が笑って、必要なものを一つずつ並べはじめる。慎太郎はそれを見つめながら、少しずつ表情をやわらげていった。頑固なだけの老人だと思っていた顔つきが、妙に場慣れした山男のそれに変わっていく。 「……なるほど。店に来るというのは、こういうことか」 「今さらですか」 「今さらだ。だが、悪くない」 商店街のざわめきの中で、慎太郎は新しいリュックを手に取り、ふっと笑った。自分の足でここまで来たことが、周囲の空気まで少し変えてしまったらしい。店員も常連客も、もう彼をただの無茶な老人とは見ていなかった。

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