岩場を越えたあとも、主人公の足取りは決して軽くならなかった。だが止まるたびに、誰よりも深く空を見上げる。息が整うまで黙って待つと、今度は自分から先へ行こうと手を振った。そのたび、家族は少しだけ拍子抜けし、少しだけ胸を熱くした。 しばらく行くと、道は思ったより素直に尾根へ続いていた。主人公が近道だと言い張った沢沿いの道も、無駄ではなかったらしい。湿った空気の向こうで、白い花がひっそり揺れている。主人公はそれを見て、山は急ぐ者より、寄り道する者に景色をくれるのかもしれんと言った。誰かが冗談でしょうと返すと、主人公は真顔で、冗談ならなおさら覚えておけと答えた。 そのころには、荷物の多さを笑っていた息子も、杖の扱いに苦戦していた娘も、自然と主人公の歩幅に慣れていた。速くはない。けれど不思議と、待たされている感じはしない。立ち止まるたびに小さな発見があり、振り返るたびに景色が少しずつ広がる。主人公はそのたび、ほら見ろ、急ぐと損だと得意げに言う。実際には何度もつまずき、何度も助けられているのに、その口ぶりだけは昔のままだった。 やがて道は緩やかな傾斜になり、木々の間から光が差し込んだ。前方で案内役が、もうすぐ開けた場所だと声をかける。主人公は一度だけ立ち止まり、胸の前で杖をそろえた。山に来てまで座り込んでばかりだったら笑いものだ、と言うかと思えば、違った。今日は十分だ、もう少し連れて行けと、珍しく弱音のような言葉をこぼしたのだ。 その素直さに、皆が思わず顔を見合わせる。だが次の瞬間、主人公は照れ隠しのように咳払いし、先に行けと命じた。背中は小さいのに、声だけはやけに大きい。その頼もしさに押されるように、一行は最後の登りへ踏み出した。すると、木立がふっと途切れた先に、山肌を渡る風と、遠くまで続く青の層が待っていた。 まだ頂ではない。けれど主人公は、その眺めを見た瞬間、もう目的の半分は叶った顔をした。ところが案内役が、頂上はあちらですと指差した先は、今見えている広場のさらに奥だった。主人公は目を細め、まだあるのかと呟く。そして次の瞬間、ならばもう一度見に行くしかないなと笑った。家族は呆れながらも、その笑顔に引き込まれていく。山は高く、足は遅く、それでも先へ進みたくなる。そんな不思議な気持ちを連れて、一行は再び歩き出した。
八十歳の山歩き
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