玄関の土間に、旅行用の袋が二つ、どっしりと並んでいた。慎太郎はそれを前に腕を組み、あれこれ中身を出しては、また入れ直している。 「よし、これで足りるな」 「さっきも同じこと言ってたよ」 背後から孫の声が飛ぶ。慎太郎は振り返りもせず、袋から靴下を取り出した。 「これはいる」 「それは三組目」 「山は汗をかく」 「おじいちゃん、行くのは明日だよ」 慎太郎はむっとして、今度は湯のみを手に取った。 「茶を飲めば落ち着く」 「玄関に湯のみは入れないでしょ」 娘が台所から顔を出し、あきれたように笑う。袋の中には、懐中電灯、菓子、折り紙まで混ざっていて、慎太郎の気合いだけが空回りしていた。 「いや、これは違う。これは……念のためだ」 「折り紙の念のためって何」 孫が吹き出すと、慎太郎も少しだけ口元をゆるめた。しかしすぐに真顔へ戻り、袋の底を確かめる。 「肝心なのは、忘れちゃならん物だ」 「なに、それ」 「わしにもわからん」 その返事に、娘と孫は顔を見合わせた。慎太郎は本気で探している。必要な物と不要な物の境目が、彼の中で少しずつ崩れていた。 「ほら、これじゃない?」 孫が差し出したのは、昔の写真の束だった。慎太郎は受け取るでもなく首を振る。 「違う。写真は大事だが、今はそれではない」 「じゃあ何」 「思い出せん」 そのときだった。玄関脇の古い小箱に手を伸ばした慎太郎の指が、硬い金属に触れた。箱を開くと、くすんだ真鍮色の方位磁石が、布の切れ端に包まれて眠っている。 「……あった」 慎太郎の声が、急に低くなる。さっきまでの慌ただしさがすっと消え、目だけが別の色に変わった。 「それ、何?」 孫が覗き込むと、慎太郎は掌でそっと磁石を受け止めた。 「昔、わしが山を歩いていたころの相棒だ」 「相棒って、ただの方位磁石じゃん」 「ただの、ではない」 慎太郎は親指で小さな蓋を押し上げる。針はかすかな音を立てて揺れ、やがて静かに落ち着いた。 「道に迷ったときも、帰り道を探すときも、これがあった。わしはこいつに、何度も助けられた」 娘が思わず声を落とす。 「そんな大事なもの、ずっとしまってたの」 「大事だからしまっておいた」 「使わないで、忘れないために?」 慎太郎は少しだけ笑った。 「そうかもしれん。だが今なら、また連れていける」 彼は磁石を胸元に近づけ、何度も頷いた。さっきまでごちゃごちゃに見えた荷物が、急に筋の通ったものに思えてくる。 「これがあれば、わしは迷わん」 「迷わないなら、さっきの入れ替えは何だったの」 「出発前夜の儀式だ」 孫が肩を震わせて笑う。慎太郎もつられて笑ったが、その笑いにはもう不安がなかった。玄関先の薄い夕光の中で、古い方位磁石だけがやけに頼もしく見える。 「よし、残りは減らす。山に持っていくのは、必要なものだけだ」 「最初からそうして」 「うむ。だが、必要なものが何かは、触ってみないとわからん」 慎太郎は磁石を袋のいちばん奥へ収めると、そっと口を結んだ。明日から始まるのは、ただの散歩ではない。そう思わせるだけの静かな重みが、掌の中に残っていた。
八十歳の山歩き
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