エラベノベル堂

八十歳の山歩き

全年齢

小説ID: cmnhd8m6f000d01o0tkwr1a4z

5章 / 全10

本当の頂に近づくにつれ、空気は薄く、道は細くなった。さすがの主人公も息を切らし、足を止める回数が増えたが、口だけはやけに元気だった。もう少しで着くはずだ、いや、まだ着かんのか、案内役は地図の読み方を覚え直したほうがいいと、杖で空を小突きながら文句を言う。そのたびに家族は笑い、笑いながらも肩を貸した。主人公は助けられるたびに礼を言わず、代わりに飴を差し出す。受け取った者は、甘さに負けて黙るしかない。 ところが最後の分かれ道で、案内役がふと立ち止まり、古い木札を指さした。そこには小さく、山神の泉と書かれている。誰も聞いていなかった寄り道の道だったが、主人公は目を輝かせた。山は頂だけじゃない、寄り道にも顔がある。そう言うと、疲れたはずの足をひょいと向ける。皆がため息をつくより早く、もう進む気になっているのだから、止めようがなかった。 木々の間を抜けると、そこには予想もしないほど澄んだ水が湧いていた。岩の隙間からこぼれるように流れ、陽の光を受けて小さな鏡のように揺れている。主人公はしゃがみ込み、両手でそっと水をすくった。冷たさに目を細め、うまいと一言だけ漏らす。その横顔は、長い年月のしわが薄く見えるほど若かった。 やがて振り返った主人公は、少し照れたように咳払いし、どうやら今日は山に招かれたらしいと言った。頂上へ向かうはずの一行が、泉のほとりでしばらく足を止める。すると案内役が、ここからの眺めも悪くありませんと笑い、木立の切れ間を指した。そこには山頂より少し低い場所から、谷と空が重なる見事な景色が広がっていた。 主人公は黙ってそれを見つめ、最後にひとつ大きくうなずいた。自分は山を見に来たつもりだったが、山のほうがこちらを見に来ていたのかもしれん。そう呟くと、家族はまた笑った。笑い声の中で主人公は立ち上がり、よし、なら本命も見届けるかと杖を突く。その背中はもうふらつかない。遅れてきた頂への道は、思いがけず一番にぎやかなものになっていた。

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