まだ薄青い空の下、登山口の空気は土と草の匂いを強く含んでいた。慎太郎は新しい靴ひもを確かめ、胸元の方位磁石を軽く叩く。 「よし、いよいよだな」 「おじいちゃん、最初から飛ばさないでよ」 孫が後ろで念を押す。娘もザックの肩紐を握り、慎太郎の横顔をのぞき込んだ。 「歩幅は小さく。休むのも仕事だよ」 「わかっておる。山は急がん」 そう言ったそばから、慎太郎はひょいと一歩を踏み出した。いや、一歩というより、気合いだけ先に進んだような勢いだった。体はついてこず、次の瞬間には家族が思わず身を乗り出す。 「危ない、早い早い」 「おお、すまん」 慎太郎は苦笑いしながら立ち止まり、えへんと咳払いした。 「最初が肝心と思うてな」 「最初で終わるつもり?」 「終わらん。が、勢いはある」 その言い方が妙に可笑しくて、孫が吹き出した。慎太郎もつられて笑う。だが笑ったあとも、顔は晴れやかだった。まるで、この一歩を何十年も待っていたみたいに。 道はすぐに緩やかな坂になった。慎太郎は息を整えるより先に、路肩に咲く小さな花へ目を留める。 「ほう、こんなところに咲くのか」 「今は花見じゃないよ」 「山は景色も連れて歩くものだ」 今度は石だ。丸い石、尖った石、雨に磨かれたような黒い石。慎太郎はしゃがみ込み、指先でひとつをつつく。 「これは道を覚えておる顔をしている」 「石の顔なんて見たことないって」 「若いな。山は全部、顔を持っておる」 家族はもう、止めるより先に見守るほうを選んでいた。慎太郎は遅い。とにかく遅い。けれど、遅いなりに足を運ぶたび、機嫌だけはどんどん良くなる。 「散歩じゃないんだからさ」 孫が笑うと、慎太郎は胸を張った。 「散歩で何が悪い。山へ向かう散歩だ」 「それ、登山って言うんだよ」 「どちらでもよい。わしはここに来た」 息を切らしながらも、慎太郎は足元を見て、風を見て、遠くの斜面を見上げた。方位磁石にはまだ手を伸ばさない。ただ胸元で静かに揺れるそれが、彼の機嫌の良さをそっと支えているようだった。 「ほら、行くぞ」 「だから、また速いってば」 慌てて追いかける家族の声を背に、慎太郎は登山口の先へ、まるで散歩の続きのように歩き出した。
八十歳の山歩き
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