頂へ続く最後の斜面で、主人公はついに足を止めた。膝に手をつき、肩で息をしながらも、顔だけは妙に平静を装っている。案内役が休みましょうと声をかけると、主人公はまだ早いと返したが、その直後に 「三歩だけ」 と条件をつけた。家族は呆れつつ笑い、三歩のつもりが十歩になり、さらに十歩になっても、誰も咎めなかった。 そのころ空は薄い雲を散らし、木々の影が足元からゆっくり退いていく。道の脇に小さな石の祠が現れたのは、誰も期待していない曲がり角だった。主人公はそれを見るなり目を細め、山は気前がいいなと呟いた。祠の前には風で運ばれた落ち葉が集まり、まるで誰かが丁寧に敷いた座布団のように見える。主人公は迷わずそこへ腰を下ろし、少しだけ鼻を鳴らした。ここが本当の休憩所だとでも言いたげだった。 だが案内役が石碑を確かめると、そこは休憩所ではなく、昔の道標が立っていた場所だった。しかも矢印は頂上ではなく、右へ五十歩と示している。皆が顔を見合わせる中、主人公だけが嬉しそうに笑う。五十歩なら大したことはない。むしろ間違えたなら、なお面白い。そう言って杖をつくと、さっきまで重そうだった足が、急に軽く見えた。 右へ折れると、道は思いがけず開けた。そこには断崖の端を縁取るように、一本だけねじれた古木が立っていた。枝の先まで届く風が強く、葉のすれ合う音が遠い波のように響く。主人公はその木を見上げ、これが山の顔かもしれんと言った。すると足元の草むらから、小さな蝶がふわりと舞い上がり、古木の幹を越えて谷へ消えていく。誰も言葉を失ったまま、その場に立ち尽くした。 やがて枝の向こうに、山頂へ続く最後の稜線が見えた。だが主人公はすぐには進まず、振り返って家族の顔をひとりずつ見た。こんな遠回りまでついて来るとは思わなかった、と言わんばかりの目だった。そして、わしは山を見に来たが、こっちのほうがよほど景色だなと、照れ隠しのように笑う。みんなが同時に笑い出し、その笑い声が風に混じって高く流れた。 主人公はようやく立ち上がり、先へ行くぞと短く言った。その声は、もう疲れた老人のものではなかった。足は遅いままでも、背中には不思議な張りがある。山道はまだ続いていたが、誰も急ごうとはしなかった。寄り道と間違いと笑いの先に、もっと大事な頂が待っている気がしたからだ。
八十歳の山歩き
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