本当の頂が近いと聞かされた主人公は、しばらく黙ったまま杖を見つめていた。息は上がっているはずなのに、目だけが妙に冴えている。やっと着くのか、まだ着かんのか。案内役が笑って答えを濁すと、主人公はふんと鼻を鳴らし、ならば山のほうが最後まで意地悪をするつもりだなと言った。 その直後、道の脇で何かがきらりと光った。足元の小石に紛れて、古い鈴がひとつ落ちている。誰かが昔、道しるべ代わりに結んだものらしい。主人公はそれを拾い上げ、掌の中で軽く転がした。鳴らしてみると、澄んだ音が山肌に吸い込まれていく。その音に誘われたのか、細い獣道のような脇道から、冷たい風が一筋流れ込んだ。 案内役は地図にはない道だと首を振ったが、主人公は目を細めた。道がないなら、山が通ってほしいほうへ連れていくのだろう。そう言って鈴を枝に結び直し、足を向ける。止める間もなく進んでしまう勢いに、家族は顔を見合わせ、それでも後に続いた。すると脇道の先で、突然木々が途切れた。 そこに広がっていたのは、頂上とは別の、思いがけない風景だった。岩場の縁に立てば、谷あいの雲がゆっくり流れ、遠くの湖が銀の皿のように光っている。山頂より少し低いだけで、まるで空の端に立っている気分になる。主人公はしばらく口を開けたまま景色を見つめ、それからぽつりと、これでは山を見に来たのか、空に連れてこられたのかわからんなと言った。 その言葉に、娘が笑い、息子もつられて笑う。主人公は少しむっとした顔を作ったが、次の瞬間には自分でも吹き出していた。笑うたびに肩が揺れ、長い年月で固くなった表情がほどけていく。そこへ風が強く吹き抜け、先ほどの鈴が細やかに鳴った。まるで、よく来たと山に言われたようだった。 そして岩場の端に、古びた木札が一本、半ば倒れかけた姿で立っていた。そこに記された文字を見て、案内役が声を上げる。頂上ではなく、見晴らし台とある。しかも本当の頂は、この先もう少し高い尾根の向こうだった。主人公は目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。まだ上があるのか。なら今日は、思ったより長く楽しめる。 誰もが疲れているはずなのに、その一言で足取りが軽くなる。主人公は杖を突き、もう一度空を見上げた。最後に一度だけ山を見たい、その願いは、どうやら山のほうが先に叶えてしまうらしい。だがそれでも構わないと、主人公は思った。道に迷ったように見えた寄り道の先で、家族の笑い声まで連れてきたのだから。 一行は岩場を離れ、鈴の音に見送られながら、最後の尾根へ向かった。主人公の背中は相変わらず小さい。けれどその歩みは、最初に家を出たときよりずっとまっすぐだった。
八十歳の山歩き
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