エラベノベル堂

八十歳の山歩き

全年齢

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7章 / 全10

慎太郎は胸元の方位磁石を指で弾き、針が落ち着くのを待っていた。さっきまで鼻歌まじりだった顔が、分岐を見たとたん少しだけ真面目になる。 「こっちで合っておるはずだ」 「その自信、どこから来るの」 孫が呆れた声を出す。道は二手に分かれ、片方は緩やかに明るい。もう片方は木立に吸い込まれるように細い。慎太郎は迷わず細いほうへ足を向けた。 娘がすぐに止める。 「そっちは違うんじゃない?」 「いや、磁石が示しておる」 「ちょっと見せて」 針をのぞき込んだ娘の眉が、すっと寄った。 「……逆だよ」 「何がだ」 「おじいちゃん、前向きすぎて反対向いてる」 その一言で、場の空気が一瞬止まった。孫が 「うわ」 と声を漏らし、慎太郎は磁石を何度も回して、ようやく自分が逆方向へ進んでいたと知る。 「しまった」 「しまった、じゃないよ」 「だが、道はひとつではない」 「開き直らないで」 慎太郎は咳払いをひとつすると、悔しそうにではなく、むしろ楽しそうに胸を張った。 「では、捜索だな」 「誰のせいで」 「みんなの山だ。みんなで探せばよい」 妙にもっともらしい言葉に押されて、家族はため息をつきながらも周囲を見回し始める。慎太郎だけは戻る気配がなく、細い道の先へ、確かめるように、けれど妙に機嫌よく歩き出した。 「おじいちゃん、そっちじゃなくて!」 「わかっておる。だが、こっちも気になる」 「気になるで動かないでよ!」 声は木々に吸われ、足元の小石だけがころころと転がる。やがて家族も追いかけるようにして細道へ入ったが、そこには慎太郎の姿がない。 「もう、どこ行ったの」 「さっきまでいたのに」 「まるで山に溶けたみたいだね」 慎太郎は少し離れたところで、ふいに立ち止まっていた。背の低い藪を抜けた先、見知らぬ切れ間が開け、風の音だけが広がる。彼が振り返ると、家族の顔が遅れて現れた。 「おい、見ろ」 その声に促されるまま、孫が慎太郎の肩越しに目を向けた瞬間、言葉を失う。 そこには小さな崖があり、その向こうに山の稜線と雲の影が重なっていた。まだ頂上ではない。けれど、朝の白さをまとった谷が深く沈み、遠くの街まで薄くきらめいている。 「……すごい」 娘の声が、思わずほどけた。 慎太郎は目を細め、方位磁石を掌に乗せたまま、ゆっくり息を吐く。 「ほらな。迷った先にも、景色はある」 「それ、全然ほめられないから」 「だが、見事だろう」 孫は言い返せず、しばらく崖の向こうを見つめた。慎太郎の頬には、迷ったはずなのに満足げな笑みが浮かんでいる。 「これぞ冒険だ」 「完全に偶然でしょ」 「偶然もまた、山の気まぐれだ」 誰かが小さく笑った。慎太郎はその笑いを聞きながら、もう一度だけ景色を見上げる。逆方向へ歩いたはずなのに、思いがけず胸の奥が澄み渡っていた。家族もまた、叱る気持ちを少しだけ置き忘れたまま、無言でその絶景に見入っていた。

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