エラベノベル堂

八十歳の山歩き

全年齢

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8章 / 全10

慎太郎は崖の景色に満足しきった顔のまま、ふいに足元へ視線を落とした。家族がまだ余韻に浸っているあいだに、彼だけはもう次のことを考えているらしい。 「……腹が減ったな」 「急に現実に戻るのやめて」 孫が呆れると、慎太郎は肩をすくめた。 「山は食う場所も大事だ」 「その言い方だと完全に遠足なんだけど」 細道を抜けた先に、古びた山小屋が見えてきた。煙突はあるが、煙は出ていない。木の壁は陽に焼け、前の木製のベンチだけが妙に手入れされている。慎太郎はそこへ向かうと、当然のように腰を下ろした。 「ここで茶を飲む。頂上は、ここだ」 「違う、違うから」 娘が即座に突っ込むが、慎太郎は頑として動かない。 「頂上とは、いちばん落ち着く場所のことだろう」 「山の定義が独特すぎる」 言い争っていると、小屋の中から人の気配がした。扉が開き、山小屋の人が顔を出す。最初は怪訝そうだったのに、慎太郎の白い髭と妙に真剣な目を見て、なぜかすぐ笑った。 「茶、飲むのかい」 「うむ。ここが頂上だと決めた」 「面白いことを言うお客さんだね」 それを合図みたいに、もう一人、さらにもう一人と、小屋の前へ集まってくる。誰も慎太郎をからかわない。ただ、なんとなく興味深そうに輪ができた。 「昔は、どの道を通ったんだい」 「この山も、若いころから来てたのか」 慎太郎は少し驚いた顔をしたが、すぐに咳払いした。 「若いころの話をすると長いぞ」 「そのほうがいい」 「茶が入るまでの暇つぶしにちょうどいいわ」 促されるまま、慎太郎はゆっくり語りはじめた。道を誤って風に助けられたこと。雨に追われて、木の匂いだけを頼りに歩いたこと。誰にも褒められぬまま、山の機嫌だけを読もうとしていた若い日々のこと。言葉は飾り気がないのに、不思議とみんな耳を傾けた。 「昔から、そんなふうに無茶だったのか」 「無茶ではない。少しだけ、山を信じていた」 その返事に、小屋の人が目を細める。 「山を信じる、か。いい言い方だね」 孫は横で、いつもの調子で笑いをこらえていたのに、気づけば黙っていた。娘も、慎太郎の横顔を見つめたまま、何も言わない。さっきまで困らせられていたはずの老人が、いつの間にか輪の中心にいる。 山小屋の前には、茶の湯気よりも先に、静かなあたたかさが満ちていた。 「ほら、慎太郎さん。続きは」 「まだあるのか」 「あるなら聞きたい」 慎太郎は少しだけ口元をゆるめ、胸元の方位磁石に触れた。針は相変わらず揺れている。それでも彼は、今だけは迷っていない顔だった。

8章 / 全10

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