エラベノベル堂

八十歳の山歩き

全年齢

小説ID: cmnhd8m6f000d01o0tkwr1a4z

8章 / 全10

尾根へ出る直前、風が急に向きを変えた。主人公は帽子を押さえ、ここで終わるなら少し味気ないなと笑った。案内役が振り返り、頂上まではあと少しですと告げると、主人公はそれを聞いていないふりをした。代わりに、持ってきた固い飴をひとつ取り出し、家族へ次々と配る。こんな山で甘い物を分けるのも悪くない、そう呟く声は、疲れた喉にしては妙に張りがあった。 そのまま進むと、道は思いのほか広い平地に変わった。そこに立つ小さな木札を見て、先頭の娘が足を止める。山頂は左、見晴らし台は右。けれど案内役は、古い地図を見間違えて右へ寄り道したまま戻る気配がない。主人公は木札を見比べ、しばらく考え込んだあと、左へ行くのはいつでもできるが、右は今しかないと言い出した。皆が返す言葉を探す間に、本人はもう右へ歩き出している。 右側の道は細く、木の枝が低く垂れていた。だがその先に待っていたのは、誰も知らなかった小さな岩棚だった。そこだけ風が静かで、目の前に谷がひらけ、雲が下を流れていく。山頂より少し低いはずなのに、世界の端に立ったような眺めだった。主人公は思わず杖を取り落とし、すぐに拾ってから、うまいことをしたとつぶやく。誰に向かって言ったのかはわからない。ただ、その顔は子どもが秘密の場所を見つけた時のように明るかった。 ところが岩棚の隅に、朽ちかけた標識が半ば埋もれていた。そこに彫られた文字を案内役が読む。ここは頂上ではなく、昔の避難場所だという。主人公は目を細め、避難場所でもこの景色なら立派だと頷いた。さらに標識の裏には、細い矢印がひっそりと刻まれている。矢印の先は、なんと今いる場所のさらに上だった。案内役が慌てて地図を確かめると、どうやらずっと一つ手前で道を取り違えていたらしい。 主人公はその事実に、驚くより先に吹き出した。間違った道を褒めるのも変だが、間違いのおかげでこんな景色に会えたのなら、山も案外気が利く。そう言って笑うと、家族の緊張もほどけていく。誰かが、結果的には大正解だったねと漏らし、主人公はそれを聞いて満足そうに鼻を鳴らした。 しばらくして一行は、岩棚を離れた。ようやく本当の頂へ向かうはずなのに、主人公の足取りはさっきより軽い。遠回りと勘違いに振り回された登山は、いつの間にか、ただ山を見るだけでは届かなかった景色まで連れてきていた。主人公は振り返り、今度こそ上だなと笑う。その声に、家族も案内役も同時に笑った。山はまだ終わらない。だが、もう十分に面白い旅になっていた。

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