エラベノベル堂

喫茶店のたい焼き事情

全年齢

小説ID: cmnhh7tx6000701motrquqaf0

3章 / 全10

扉の鈴が、午後の眠気をほどくように鳴った。買い物袋を腕に下げた陽子は、少しだけ頬を赤らめながら窓際席へ腰を下ろす。新は水差しを置き、自然な動きで視線をショーケースへ誘導した。 「いらっしゃい。今日は、たい焼きでいいですか」 「ええ、三つお願い。友人に持っていきたいの」 「かしこまりました」 陽子は言い終えると、すぐに包装紙の山へ目を向けた。新が包み方を尋ねるより先に、彼女は 「ここのは折り目がきれいで好きなの」 と笑う。 焼き上がったたい焼きを一つずつ紙に包む間も、陽子の指先は落ち着きなく端を揃え続けていた。三つとも同じ向きで入っているか、表側の見え方は整っているか、そんな細かなことを確かめる様子に、新は小さく目を細める。 誰かのために選ばれている。 そう思った瞬間、たい焼きの意味が、少しだけ違って見えた。自分の店で最も目立つ甘い匂いは、空腹を満たすためだけではない。渡す相手を思い浮かべる手つきに寄り添う、小さな言葉代わりなのかもしれない。 「お待たせしました。持ち歩くなら、少しだけ上をあけておくと潰れにくいですよ」 「ありがとう。そういう気遣い、助かるわ」 陽子はひとつ受け取り、残りを袋へしまう前に、迷わず端の一つへ手を伸ばした。 「せっかくだし、味見していい?」 「もちろん」 紙を少し開くと、湯気がふわりと上がる。陽子は小さく息を吹きかけ、一口かじった。甘さがほどけたのか、肩の力が抜けていくのが見える。 「……おいしい。こういうの、ひと口あるだけで、気分が変わるのよね」 その笑みは、さっきまでの買い物帰りの表情よりずっと柔らかかった。窓の外から差す光まで、店内の空気まで、少し丸くなったように感じる。 新はその変化を見逃さず、静かにノートへ一行だけ足した。たい焼きは食べる人を笑わせるだけではない。渡す人の気持ちまで、やわらかく運んでくる。 陽子は残りの包みを丁寧に抱え直し、立ち上がった。 「じゃあ、行ってくるわ。また来るね」 「ええ。お気をつけて」 鈴が鳴って扉が閉まると、店内にはまだ、甘い香りの余韻が残っていた。新はその空気を吸い込みながら、窓際の席に落ちた陽だまりを見つめる。誰かに渡すために選ばれたたい焼きが、今度は誰かの一日を少し明るくする。その始まりを見届けた気がして、新はわずかに口元をゆるめた。

3章 / 全10

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