エラベノベル堂

喫茶店のたい焼き事情

全年齢

小説ID: cmnhh7tx6000701motrquqaf0

4章 / 全10

喫茶リラの午後は、もう以前のような静けさだけではなかった。たい焼きを焼く鉄板の音が合図のようになり、店先には焼き上がりを待つ列ができる。だが不思議と、客たちはそれを苦にしなかった。むしろ待つ時間そのものを楽しんでいるふうだった。 マスターはカウンター越しにそれを見ながら、湯を注ぐ手を止めない。コーヒーを頼んだはずの青年が、隣の席の学生に勧められて結局たい焼きを追加する。新聞を読むだけのつもりだった老人が、焼き上がりを待つあいだに店員でもないマスターへ世間話を投げる。誰もが少しずつ、最初の目的から外れていく。その外れ方が、店内では妙に心地よかった。 ある日、常連の婦人が珍しく友人を連れてきた。友人は入るなり、こんなに甘い匂いがする喫茶店は落ち着かないと言った。ところが席に着き、焼きたてを一口食べた瞬間、言葉を失って目を丸くした。その横で婦人は得意げに笑い、マスターは無言で次の一匹を焼き始める。店の中の空気は、誰か一人の感想で決まるものではない。驚きも、沈黙も、笑い声も、全部が少しずつ混ざっていた。 学生たちは勉強を続けるはずが、気づけば席を寄せ合って小さな相談会のようになる。近所の人々は、持ち帰りだけのつもりで来て、帰るころには 「また今度」 と誰かに手を振っている。マスターはその様子を眺めながら、好みの違いが人を分けるのではなく、むしろ同じ場所に集めてしまうことがあるのだと知った。あんこ派も、クリーム派も、苦いコーヒーを好む者も、結局は焼きたての匂いの前では似た顔になる。 閉店間際、店先に残った最後の客は、たい焼きを二つだけ頼んだ若い女性だった。彼女は受け取ると帰るでもなく、窓際で静かに食べ始める。やがて食べ終えると、まるで思い出したように言った。ここは、待っているあいだがいちばん好きです。マスターはその言葉に、少しだけ目を細めた。 静かな喫茶店を目指していたはずの場所に、こうして人が集まり、声が増え、温度が残る。だがそれは失われたのではなく、別の形で店に根を下ろしていた。マスターは鉄板を拭き終え、明日の生地の準備をしながら、今度は誰がどんな顔で来るのだろうと考える。思いがけない場所へ辿り着いた店は、すでに次の一日を待っていた。

4章 / 全10

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